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(垂井追分) > 大垣




山の国 海の国へと 分かれ道

 中山道美濃路追分。
 「ここが、中山道と美濃路の分かれ道?」 そう。美濃路は、ここから大垣、名古屋を通って、宮宿で東海道と接続してるね。「近辺に住む人が、東海道、中山道に出るのに使っていただけ?」 いやいや、そうじゃない。
 東海道は、宮から桑名までは、七里の渡しになっていたけど、船に乗れない物とかは、こちらを使ったみたいだね。例えば、象さんとか。「それ、一回だけでしょ!」 まあ、そのほか、馬で行き来する場合とか、海難事故などのリスク回避とか、結構使われたようだね。
 「ところで、脇の水筒みたいなのは、何?」 道路工事の警備員のおじさんの水筒! もっと、引いた景色を撮りたかったんだけどね、工事中だったので…。



街道の 奥へ奥へと 誘うよに

 綾戸 松並木
 なんか、交通量の多いところを歩くのは…、と、思ってたけど、松並木だね。いいね。俄然、元気が出てきたね。
 念のためにだけど、写真では、あんまり車が写ってないけど、ここ、ホント、交通量多いから。「そうなんだ。また、ベンチでもあればって、言うのかと....。」 おいっ!



唯一の 並木と聞けば 楽しみが

 綾戸 松並木。
 美濃路が始まってすぐの松並木。うれしいけれど…。「けれど?」 美濃路の中で、松並木って、ここだけみたいだよ。「そうなの? この後、何を楽しみに歩いたらいいの?」 もうちょっと、ゆっくり歩いて、この景色を堪能しようかな。「時間、ないけど?」



書によると 江戸の世よりも 長く生き

 綾戸 武内宿禰の墓。
 ここが、武内宿禰の墓? 「武内宿禰って?」 成務、仲哀、神功、応神、仁徳の天皇、皇后に仕えた人。「すごいね。なんとなくだけど、古代の天皇って、みなさん、結構、長寿だったような気がするんだけど…。」
 その通り。武内宿禰は、三百歳はいってるね。「江戸時代より長いね。」


伝説の 人ではあるけど 墓残り

 綾戸 武内宿禰の墓。
 「三百歳って、仙人?」 古代の忠臣の代表みたいな人だね。日本武尊尊と同じように、複数人の忠臣を、合体させて偉大さをアップさせたのかもね。
 「代々、権兵衛を名乗っていたみたいに、何代にもわたって、武内宿禰だったとか。」 新しい説だね。
 でもでも、そんな仙人みたいな人でも…。「人でも?」



主人の名 忘るも次々 生み出して

 武内宿禰の墓=熊坂長範の物見の松、の、前の歌碑。
 元々、古墳時代末の円墳が始まり。武内宿禰の墓と言われる。その後、松が生え、大樹になり。平将門の乱では、調伏のための幣掛の松として利用され、平安時代末には、熊坂長範の物見の松として使われる。 「熊坂長範って、だれ?」
 大盗賊‼︎ 中山道と美濃路の岐れに近く、一面、野原だったので、街道を行く旅人を物色するには、ちょうど良かったみたい。
 なに…、結局、三百年生きたと言われる伝説的な人を押し除けて、盗賊の名前を冠する名所になっちゃったの?  
 大切の 名をぬすまるゝ ゆきの松
    (谷 木因)
 
 写真右が木因。左が多分、芭蕉で、こちらは、よく分りませんでした。m(_ _)m。


盗賊が 一番文化に 貢献し

 熊坂長範の物見の松、の、前の歌碑。
 ある日のこと、運悪く、ここを、金を扱う商人が通った。「ほう…。」 そして、運悪く、大盗賊熊坂がこの商人を襲った。「運悪く?」 そう、運悪く、源義経が付き添っていたので、返り討ちにあう。「なるへそ、運悪くね。」
 そして、このエピソードをもとに、能の熊坂が生まれる。「能の演目になってるんだ…。」  ある旅の僧がここを通った時に、一人の僧に会う。その僧が供養を頼んで姿を消してしまう。旅の僧が供養を始めると、先ほどの僧が、盗賊の姿で現れ、義経との戦いを再現し、再度供養を頼んで消えてゆく、と、いうようなもの。
 この作品に、義経は、登場しない。「盗賊が主役なんだ。」



少しの間 歩けば再び 目に止まる

 金生山ピラミッド。
 あれは、なんだろう?? 「ピラミッド?」 うん、多分、十人に聞いたら、十人とも、そう答えると思うよ。
 石灰石の、採掘場なのかな? 周りの山と比べると、小さいとは言え、完全に山だね。山。
 少し歩いては、ついつい、見てしまうね。



古きよな 区画整理の 畦の道

 綾戸。
 「昔の道が、残ってる〜って言う感じだけど、違うんだろうかね。」  そうだね。おそらく、昭和の高度成長期に、区画整理せれたって雰囲気かな。  ちなみに、一筋南は、国道21号線、岐大バイパスが、突っ走っているからね。「写真の雰囲気ではないということね。」



主戦場 ここらあたりで なかったら

 長松城跡。
 関ヶ原の戦いは、わずか一日で決着したって言うけれど、本戦前に、ここも戦場になっているんだね。
 長松城主の武光式部は、西軍側に立ち、東軍を迎え撃つが、武運つたなく、桑名に撤退。戦後は、浪人となるが、十四年後の大坂の陣には、大阪城に入って戦死しているね。「最後まで、豊臣方として、戦い抜いた人だね。」
 この碑は、荒崎小学校にあるんだけど、碑文の最後がいいね。
 
 …。
 関ヶ原の戦いの後、廃城となる。
 以後、西美濃の要地として使われて、
 末には飯沼慾斎が学問の地として住んだ。



別荘や 植物園や 研究所

 平林荘(へいりんそう)跡。
 蘭方医飯沼慾斎が、三十年に渡って植物を研究した別荘跡だそうな。「三十年…、すごいね。」 そう、引退してからの三十年。「引退してから…。」
 わが国最初の科学的植物図鑑をあらわしている。「科学的…?」 スウェーデンの博物学者リンネの分類法に従っているそうな。江戸時代末のこと。「江戸時代に…。」
 あらわした図説は、時代が変わっても高く評価されているそうな。ちなみに、全三十巻のうち、未刊行だった木部十巻は、死後百二十年後の昭和五十四年に刊行されたとのこと。


研究の 重さ表す 御門かな

 平林荘(へいりんそう)跡。
 「心酔してるとこ、すみません。」 何?「この門は、明治維新後に、戸田氏寛が、ここに隠居した時に、大垣城の七口門のひとつを移築したんだって。」何じゃいな。



堤防に 上りてみれば ピラミッド

 大谷川橋。
 いや〜、期待を裏切らないね。「何? なに?」ちょっと高い所とか、開けた場所に行くと、すぐに探してしまう、伊吹山とピラミッド。「すっかり、旅の友だね。」



いつ越えた 山の向こうに 伊吹山

 大谷川橋。
 伊吹山は、いいんだけど、その手前の山が…。「どうしたの?」
 伊吹山の前面の山裾を完全にふさいでいるけど、あんな山、いつ越えた?
 「そうだよね。地図見ると…、どうも、あるいてきたのは、この写真から随分と左にそれた所から、来たみたいだね。」なるへそ。



街道も 大工場の 裏道に

 久徳町。
 右も左も工場というか、事業所というか、しかも、裏側の道みたいで、寂しい限りだね。「さっき、区画整理の碑があったから、ひょっとして、この道自体も、新しい道?」
 う〜ん、明治27年発行の地図を見ると、いま、あるいてるところ、それに、ここから先は、旧のルートと重なっているけど、今まで歩いて来た県道31号線が、微妙にあたらしいルートみたいだね。
 「えっ? どこから、あたらしくなっていたの?」 東海循環道を、くぐって少し行ったとこらへんからかな。「ふ〜ん、旧街道が幅広くなっただけだと思っていたけど、逆だったのか。」



空襲で 全焼田中の 学校が

 静里小学校。
 「なんで?」 さぁ…、工場と思われたのだろうか。「まったく、ひどいね。」
 空襲は、昭和20年の7月29日。「終戦の2週間前?」
 56000人の人口の大垣市に対して、20000発の焼夷弾が投下された。「無茶苦茶だね。ホント、ひどいね。」



背景の 空に枝葉を 描いたら

 久徳の一里塚。
 「お〜、思わず声が出そうないちりつだね。」 いいね。迫力の幹周りだね。
 「案内板には、ほぼ原形に近く、って、書いてあるね。」 本来の一里塚のスケール感は、こんな感じなんだよね。これで、目いっぱい、枝葉を描いたら、こりゃぁ、すごいね。
 「あっ、よく見ると、切られてる幹の先っちょから、少し枝葉が、出ているね。」 ガンバレ‼︎



渡しでも あるよな感じで 誘われど

 久徳の角。
 街道をまっすぐ行くと、堤防に突き当たると思いきや、堤防が、切れてるね。「でも、川の水量が増えて来たら、水色にペンキ塗ってある部分が動いて、堤防が閉じられるんだろうね。」
 すごい重量感だね。それだけに、あんしんできるんだろうけどね。


2022.03.24.午後:
 垂井から大垣まで、てくてく。

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