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(垂井追分) > 赤坂




知らぬ顔 わしに聞くなと 軍師さま

 垂井駅前竹中半兵衛像。
 「いゃ〜、久しぶりだね〜、垂井駅…、1年10カ月ぶり…?、半兵衛さまの像の前に、何かあるけど…、前に来た時、あった?」
 な、なんだろうね。ローマ字で、TARUI。しかも、アイの字の上の点が、可愛く赤のハートマークになってるよね。これは、軍師さまの発案なのかな?「どや! カッコイイだろ‼︎って?」 いや〜、違うんじゃない?「どう違うの?」
 TARUIって、駅に降りて見ると、裏向いてるよね。「と、言うことは、観光客向じゃなくて、ここに住んでるひと向け?」 この土地に、誇りを持って、愛情を持って、住みやすい町にしていこうと言う…とか?「でも…。」 でも?「半兵衛さまの後ろに、誰も続いてないよ。」 おいっ‼︎ みんな忙しいの‼︎「m(_ _)m。」



寒そうな 暖かそうな 伊吹山

 相川橋。
 お〜、朝日を受けて、輝いてるね。「やっぱり、雪をいただいている姿は、カッコイイね。」 ただ、しいて言えば…。「強いて言えば?」 足りないのは、熱いお茶、腰掛けに、足湯かな? 「また、それかいな。」


伊吹山 描いてしまう 鯉に花

 相川橋。
 ここを通るのは、二度目。季節は違うけど、いいね。「前は、春だったよね。」 そう、相川を鯉のぼりが、幾重にも泳いでいたよね。桜は、蕾だったかな。「車窓からは、満開の桜に、鯉のぼりというのも、見たよね。」 一度、あの景色を見たら、別の季節に来ても、思い描くことができるね。ここは、ホント、いいところだよね。



海山へ 行き先同じ 分かれ道

 垂井追分。
 正面の道が、美濃路。名古屋の熱田、宮で、東海道に接続して、駿河、相模を横断して、お江戸日本橋まで、海の道。左は中山道と言うか、木曽海道。木曽路から信州を突っ切って、上野の国からお江戸日本橋まで、山の道。
 「…木曽海道?」 そう、中山道、別名、木曽海道。歌川広重が描いた浮世絵も、木曽海道六十九次って、なってるね。
 「なんで、木曽海道って、海道なの?」 えっ…。「山ばかり続くのに、何で、海の道?」 …、う〜ん、う〜ん、でも、でも、大体、街道だって、野山に田畑ばかり続くのに、何で、街中の道なのよ。「げっ、…う〜ん。」
 なんか、明確な基準は、ないのかな? 江戸時代には、一般庶民レベルでは、かいどう、と、言えば、海道。明治以降は、街道に変わったって感じだろうかね。「ふ〜ん。」



幼きの 情景湧き出る 手押し井戸

 喜久一丸稲荷神社。
 いゃ〜、懐かしいね。「使っていたの?」 いやいや、すでに使われてなくて、単に残っていただけだけどね。
 いつもは、手水舎の水って、出ているのが当たり前で、何も感じないけど、これだと、水の貴重さ、大切さが感じられていいね。



歩くのも ペース気にする 歳なのに

 キャプテン翼スタジアム。
 「キャプテン翼スタジアムって?」 貸しコート…かな。なんか、これみてたら、体を動かしたくなるよね。「昔、漫画、読んでたからね。」
 サッカー教室もあるようだね。「お年寄りも、出来るの?」 年長者のコースもあるみたいだよ。「それは、年長! 幼稚園児‼︎」 m(_ _)m。



高々と 毛槍かここは 中山道

 垂井町駒引。
 「中山道の看板だね。いいね。親切だね。」 大名行列の毛槍みたいだね。
 「道端じゃなくて、車道と歩道の間にあるのも、ちょっと斬新。」 ひょっとして、この高さは、トラックの運転手さん用?「まさか?」 積雪のため?「そんなに、積もるの?」 かもね。
 「そう言えば、ここ、駒引って地名も、何かそういうところからの関係なのかな?」 色々と、想像しながら歩くのも楽しいよね。



看板の 飯屋はニ点 五キロ先

 垂井町平尾。
 「それ、飯屋の看板じゃないって。」 m(_ _)m。う〜ん、でも、ねらいは、何なんだろうね。ここ、交差点でも、分かれ道でもなく、道も、見るからにまっすぐだよね。迷うとも、思えないよね。
 「分かった!」 何? なに?「旅人さんみたいなお年寄りが、不必要に、あとどれくらいあります?って、声かけてきて、長話するから、たまりかねて、近所の人が設置したとか?」 し、失礼な。



宿場でも ないよなところに 御坊さま

 平尾御坊道。
 「平尾御坊道? 御坊って、浄土真宗の大きなお寺があるの?」 そうだね。六百メートルほど行ったところにある願證寺が平尾御坊と呼ばれているようだね。
 「ここ、宿場と宿場の間だけども、昔は地域の中心地だったの?」 う〜ん、よくは、分かんないけど、御坊のすぐ横には、美濃の国分尼寺跡があるみたいだから、そうなんじゃないかな。
 「じゃ〜、御坊さんは、国分尼寺の跡を継いでるの?」 いやいや、もともとは、伊勢長島の願証寺。「あの長島一向一揆の?」 そう。一揆壊滅の後、ここで再興されたようだね。まぁ、再興といっても、西美濃の人たちの要望で、名前と血脈を継いだってことかな。


大垣の 伽藍の元の 道標

 平尾御坊道。
 「えっ? どういうこと?」 美濃路を歩いた時に、街の東にあった大きな伽藍があったでしょ?
 「あった、あった。えっと…大垣別院?」 そう。あの別院は、平尾御坊の掛所、出張所みたいなものかな。大垣藩主の要請で、できたみたいだよ。「そうなんだ。ここから、繋がっていってるんだね。」



街道の 看板よりも 小さくて

 大垣市境。
 「自治体名の看板、えらい、小さいね? なんで?」 さ〜、なんか、設置する際に、どうせ、そのうちに、合併するだろうから、小さいのにして、経費削減しよう…とか。「そうなの?」 勝手に思っただけです。m(_ _)m。
 でも…。「でも?」 平成の大合併の際は、大垣市と周辺九町の間で、協議がなせれたが、二町のみとの合併で、大大垣市は、誕生しなかったみたいだね。
 「数が多くなると、難しいよね。地元に、目が届きにくくなるんじゃないかって、思うよね。」 そうだけど、大合併して、中山道市なんて、作ってほいいね。「日本一長い市? 越県するけど?。」 じゃ〜、中山道都。「行き過ぎ! 笑。」



天守さえ 焼け落ちてなお 残りたる

 大垣城本丸乾門。
 大垣城、本丸の乾門。「風格あるね。さすがに、これは、見落とさないよね。」 おいっ‼︎
 まぁ、お城を中心にして考えれば、お城の中のものが、よそに移築されるのは、寂しい限りだけども、それで戦災をまぬがれて、残っているのが、すごいね。「本当に、移築しといてよかったよね。…って、なに、拝んでるの?」 強運に、あやかりますように。「…。」



発狂と 言われど知れり 知る人は

 稲葉正休公碑。
 「稲葉正休公って?」 江戸時代、5代将軍綱吉公の前半、政権を牛耳っていた大老堀田正俊を、殿中で殺害したのが、若年寄で、ここ青野の藩主、稲葉正休公。「若年寄が、大老を…。しかも、江戸城の中で?」
 そう。でも、こんな大きな碑まで、建てられているし、内容を見ても、正義感が強く、学問もし、領民への情も篤く、新田開発、農業用水、ため池の造成など善政を行なって、みんなから慕われていたようだね。
 「でも、どうして? やっぱり、この恨み、はらさで…的なかんじ??」 いやいや。「…?」


天下の為 正義は一撃 必殺で

 稲葉正休公碑。
 おもてむきは、発狂的な感じにされているみたいだけど…。「…だけど?」
 残っている逸話では、用意周到だったようだし、遺書には、将軍への御恩に報いる為とかあったので、単純な恨みなどの私憤じゃないみたいだね。
 事件後も、殿中で、これだけの騒ぎを起こしているのに、同情する人が多かったようだね。「殺された方は、嫌われていたっていうこと?」
 そうだね、将軍も含めてね。「将軍も?」 だから、この事件に関しては、将軍黒幕説もあるようだよ。「なんとね…。」



雪まみれ ひとり気を吐く 伊吹山

 大垣市青野。
 「伊吹山、きれいだね。」 今日は、そんなに風はないと思うんだけど、見ているだけで、寒くなってくるよね。冬将軍が住んでるみたい。
 「もし、伊吹山が、無かったら、伊吹おろしもないかな?」 いやいや、それはないでしょ。
 だいだい、大陸からの風を、体を張って、防いでくれてるのが伊吹山。「そうなの?」
 伊吹山に雪雲がぶつかって、向こうの滋賀県側では、日本記録を持つくらいの降雪地域になっているからね。「じゃ〜、山が無かったら、美濃と尾張は、とんでもないことに?」 感謝だね。伊吹山。



若武者は 作品の中で 脈々と

 青墓宿。
 「青墓宿って、あるけれど、中山道六十九次には、ないんだけど?」 もっと昔の、東山道の宿駅だね。平安時代末から、鎌倉時代に、賑わっていて、遊女なども、やたくさんいたそうな。それに…。「それに?」
 源頼朝の祖父為義、父義朝のそれぞれの妾が、この宿場の長者の娘だった関係で、ここ青墓宿は、歴史上の舞台になっていて、それが、能の作品にもなっている。「なんて言う作品?」 朝長。
 「朝長って??」 源義朝の次男で、頼朝の兄。平治の乱に敗れて、都落ちの際に手傷を負い、ここ青墓で16才の生涯を閉じる。「若いね。平敦盛と、同じような歳だね。」



ここに来し 人のことなど 覚えてか

 芦竹庵。
 昔、源義経が、京の鞍馬から抜け出して、奥州へ落ち延びる際に、ここにあった圓願寺で休憩し、父と兄の供養をした。その時、持っていた芦の杖を地面に突き刺して、歌を詠んだ。
 
 挿しおくも 形見となれや 後の世に
  源氏栄えば 芦竹となれ
    (源義経)
 
 すると、後に、この杖、根を張り、芽をふき、見事な竹の葉が茂ったそうな。「よくある、お上人さまの、伝説のようだね。」 まぁ、しかし、後を知っているだけに、悲しくもあるね。



伝説を なぞる身の上 伝説に

 照手姫井戸。
 ここは、照手姫の聖地なのかな?「美濃路を歩いていたときも、照手姫、出てきたね。」
 そう、言い伝えがってレベルじゃなくて、照手姫も、小栗判官も、祭神として祀ってある神社があったよね。「すごいよね。一応、伝説でしょ。」
 いやいや、伝説には違いないと思うんだけど、かつての宿駅、青墓で遊女として働いていた、実在する人たちの思いや、希望、願望が、伝説を飾り付けていったんじゃないだろうかね。「なるほどね。」
 伝説自体も、何種類も、バリエーションが、あるようだからね。「その土地、土地の人の思いによって、ストーリーが分かれていったのかな?」



滅びゆく 姿は平氏 源氏でも

 青墓宿。
 源朝長。京都大原で、比叡山の僧兵による落武者狩りで、ふとももに矢を受けて負傷。ここ青墓まで、なんとか付いてきたが、これ以上は無理と判断。「ここまでだけでも、よく来たよね。」
 このままで、いずれ敵に捕まるのは確実なので、父義朝の手で送ってほしいと。「なんと…。」 それで後顧の憂いを絶ってほしいと。「きついね…。」
 父義朝は、やはり俺の子と、感心して、刀を抜く。宿の長者たちが、とめに入ると、性根を試しただけだと、刀を納めた。「ドキドキ…。」
 その夜、義朝が様子を見に朝長の寝所を訪ねる。朝長は、お待ちしてました、と、念仏を唱える。「あ〜、やはり…、そうなのか…。」 滅びゆく者が、主役だね…。



さっきまで 外にいたよな あわてぶり

 白髭神社。
 「これは、また、すごいね。彫りが深いとかじゃなくて、完全に飛び出してるよね。」 いやいや、あとから、くっつけたって感じ。よく、左甚五郎作の彫り物が、夜中に抜け出すという話があるけど、まさに、それだね。
 「今日は平日で、朝も通勤通学で、みんなバタバタしている時間帯だから、参拝者はいないだろうと、油断して、さっきまで、境内で遊んでいた感じだね。」 まったく。笑。



特急に 乗らなきゃ見えない 景色かな

 新垂井線。
 「…?、どういうこと? 停車駅、到着時刻に料金は違うけど、さすがに、車窓から見る景色は同じでしょ?」 いやいや。前に岩手陣屋へ行く道で貨物列車が走っている単線、見たでしょ?
 「はいはい、あったね。大垣から関ヶ原への急勾配を緩和するために造られた、西行きだけの専用線。」 ここは、貨物列車以外に、特急列車も走るらしい。「そうなの? 何で?」
 普通列車が走っている急勾配の垂井駅経由の線は、速度制限が85キロなのに対して、こちらの線は120キロだそうな。「なるほど、こっちの方が早いのね。一度、のってみたいところだね。」



その昔 昔々の 昼ごはん

 如来寺の前。
 昼飯だね。「…? 何言ってるの? まだ、朝の8時半だよ。」 いやいや、ここの地名のこと。昼飯(ひるい)だよ。
 昔々、難波の堀江で、本田善光さんが一光三尊阿弥陀如来を拾い上げ、地元長野に帰る途中、一行がこの地でお昼をとったから、ひるい、と、いう地名になったそうな。
 「それ、いつのこと?」 かなり、昔。「…?」 推古天皇…、西暦でいうと、600年くらいかなぁ…、だいたい…。「えらい昔だね。よく、そんな大昔のお昼休憩の話が、残っているね。」 それだけ、ありがたい、仏様だったのかな。



印度から 山谷砂漠 海越えて

 如来寺。
 「先ほどの、ありがたい阿弥陀如来様、拾い上げたって言ってたけど、何でそこにおられたの?」 蘇我氏と物部氏の争いで、物部尾輿が蘇我稲目の寺を焼き、阿弥陀如来様を、難波の堀江に打ち捨てられた。「知ってる。へ〜、その時の、仏像なの?」
 そう、欽明天皇から蘇我稲目に託されたものだけど、もともとは、仏教伝来と言われる時に、百済の聖明王から、贈られたものだよ。「日本最古の仏像?」 そう。だけど、さらに遡れば、天竺からの伝来だから、日本最古って言うレベルじゃないね。



全国に 一光三尊 二百体

 如来寺。
 ありがたい阿弥陀如来様は、長野の善光寺で祀られた。「それが善光寺さんの御本尊?」 そう。中央に阿弥陀如来様、脇侍に観音菩薩様、姿勢菩薩様を配し、一体となった像。「それで、一光三尊!」
 さらに、鎌倉時代には、善光寺信仰が盛んになり、分身像がたくさん作られ、全国あちこちで、祀られたそうな。今ある分身像の数は、二百を超えるとか。「すごいね。」
 ここの如来寺には、日本で最初の分身如来が祀られている。「なんとね。」



古民家や 何が生まれて 育つやら

 セミナーハウス。
 ここは、古民家活用の、セミナーハウスだね。「岐阜大学って、書いてあるね。調べてみよう。」
 
 ・旧中山道沿いの古民家を活用した本学の新たな活動の場
 ・古民家の歴史と文化の趣のある空間の継承
 ・教育の場、学術研究のフィールドワークの活動拠点
 ・歴史的資料等の展示
・地域へのサービスの提供と交流
 
 「要するに…?」 う〜ん、一番コンパクトな展示室は、時間貸し60円だから、寝袋持って入って泊まると…。「何言ってんだか!」 m(_ _)m。



ピラミッド なんか小さく なったよな

 金生山ピラミッド。
 昼飯大塚古墳の上から。
 岐阜のピラミッド、大垣のピラミッド、金生山ピラミッド…、って、あれだっけ?? なんか、もうちょっと、とんがっていたような…。「風雨で侵食されたとか?」
 この前、見たのが、去年の3月、美濃路を歩いた時だったよね。「侵食、早すぎ?」
 なんか、ピラミッドの上で、動いてるものが、あるよ。「えっ…?」



ピラミッド 知ってる世代に なりにけり

 金生山ピラミッド。
 ショベルカーだね。まぁ、ここは日本一の石灰石の生産地みたいだからね。今、まさに、ピラミッドが、なくなりつつあるようだね。「なんか、さびしいよね。」
 というか、過去の記憶で、ピラミッドって言ってるけど、よくよく見ると、すでにピラミッドじゃないね。「そう言われれば…。じゃ、これからは、何て呼べばいいの?」
 う〜ん、金生山屋島。「讃岐の屋島?」 …金生山跳び箱。「小学校の体育館の?」 …金生山ひしもち。「お雛様飾りの三色の菱形の?」 う〜ん、…ギブアップ。



大空へ 夢の広がる 大王墓

 昼飯大塚古墳。
 後円部の麓から、上部を望む。階段の右側が、復元ゾーンで、葺石が敷き詰められて、当時の姿が再現されている。
 縦方向に見ると、墳丘は三段になっていて、格段の境には、写真に見えているように、埴輪が並べられていたそうな。
 個人的には、葺石よりも、緑に覆われている方が、いいね。まぁ、古墳は、王の墓ではあるけれど、このように整備されていて、中に入ったり、上に登ったりできる方がいいね。「古墳って、森のようにこんもりしていて、眺めるだけのものだと思うまでいたからね。」
 そうだね。いくら大きいと数字で言っても、こんもりした森を眺めるだけじゃね。「よかったね。ここ。」



閉ざされた 季節に生きいき 古墳かな

 昼飯大塚古墳。
 「遠くに見えるのは、これ、伊吹山?」 そう、伊吹山。かっこいいね。「で、手前の緑が、堤防…じゃなくて、古墳なの?」 正解‼︎
 「すごいね。雪に閉ざされた伊吹山に対して、太古の墳墓が、生き生きして見えるのが、面白いね。」 そうだね。しかも、できた当時は、葺石が並べてあったと思われるから、今と違って、冷たい感じだったんじゃないかな。「今だからこその景色だね。」



見渡せる 景色も墳墓の 大きさに

 昼飯大塚古墳。
 「この古墳も、大きいね。」 岐阜県最大だね。実際の大きさ、数字だけからいうと、最大の仁徳天皇陵、大仙陵古墳の半分以下なんだけど、景色がね。
 「たしかに、整備された古墳の上、後円部の上に立つと、雪をいただく伊吹山が、雄大、かつ、カッコよく見えるからね。」 そうだね。印象としては、伊吹山も含めて、大きかった、偉大だったという感覚が残るよね。「そういう意味では、この昼飯古墳こそ、最大の古墳と言えるかもね。」


2024.01.09.:
 垂井駅から、穂積駅まで、てくてく。

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