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太田 > 伏見

振り向けば そこは冬の 木曽の川
兼松嘯風句碑。
「地元の人?」加茂郡深田の人ってあるから、まさに、ここ、美濃加茂市深田のひとかな?
「なんて、句?」う〜ん、山間の…、雪のまるまる…、まるまるま…。「字数だけ合わせんでもいい!」
山間の 雪の中ゆく 筏かな
(兼松嘯風)
「おお〜、かっこいいね。」見渡す限りの山々は、一面の雪。飛ぶ鳥も無く、人の足跡も、道も、雪に埋もれた中、黒い木曽川を、筏が、ひとつながり、下っていく。「千山、鳥飛ぶこと絶え…の世界?」いいね。
「乗ってみたい?」いやいや、いやいや、そう言う風景を、見てみたいね。

雄大な 河でも岸辺で 鶯が
美濃加茂市。
「今、鶯、鳴いた?」そうだね。山の中でもなく、この広大な景色の、どこで鳴いたんだろう?
「飛びながら、鳴いてるの?」えっ?鶯って、梅の枝にとまって、鳴くもんじゃないの?「すわぁ〜、雲雀とか、カラスは、飛びながら鳴いてるよね?」
う〜ん、でも、鶯のあの鳴き声のリズムで、羽ばたくこと、できる?「まぁ、旅人さんだったら、できないだろうね。」おいっ!
木曽川の 怒涛の流れに 合戦も
美濃加茂市。
ここから川下のあたりで、承久の乱の、初戦、大井戸の戦いが、あったそうな。「そうなんだ。まったく知らなかったよ。」
もっとも、鎌倉方が、京方の二十五倍くらいの圧倒的な兵力だったので、京方は、木端微塵になったようだね。「木曽川にあらがうようなものだね。」

鶯の 声高らかに 詠ずるは
諷詠の径。
「ね〜、ね〜、今、鶯が読んだのは、どの句?」分かるわけ、ないでしょ!
「やっぱり?」おいっ!「でも、いいよね、これ。」そうだね。この広々とした、気持ちよい景色の中で、毎日、ひとつずつ、味わいながら、散策するのは、いいね。
「ほんとにね。こう言うのがあると、この町、かなり文化的な所かと、思ってしまうけど?ここは、俳諧の拠点だったところ?芭蕉さんのお弟子さんが、沢山いたとか?」
う〜ん、さっきの兼松嘯風さんの句碑もあったくらいだから、俳諧が好きな人も、また、訪ねてくる人も、多かったんじゃないかな。
「ところで、ここにあるのは、全部、ここで詠まれた句?」すわぁ〜?だとしたら、ここ、すごいとこだけどね。

実際の 景色無くとも 座るとこ
諷詠の径。
「何言ってるの?また、ベンチが、ほしいって?」m(_ _)m。
菜畑に 花見顔なる 雀かな
(芭蕉)
この句は、伊賀上野で、詠んだ句のようだね。「いいね。風景が、鮮明に浮かんでくるね。桜色のあとの季節。今度は、あちこちに、黄色の絨毯。」
笑。面白いね。「何が?」数分前まで、一面、雪景色だったのにね。「確かに。笑。」
数歩ごと 次々景色が うつりゆき
諷詠の径。
「すごいね。今度は、浜辺?」大道具さん、大変だね。「頭の中の?」
海士の屋は 小海老もまじる いとど哉
(芭蕉)
「これは、どういう情景?」海士の家で、獲ってきた小海老の中に コオロギが混じって、一緒に、跳ねてる、って感じ。「面白いね。これ、ホントに、芭蕉さんが、作ったの?」
さまざまな 景色も夜は 月でさえ
諷詠の径。
「今度は、夕方の景色?夜の風景?」
蚊帳を出て 又障子あり 夕月夜
(内藤丈草)
蕉門十哲の一人。犬山の人。出家をした、ある人に対して、送った句だそうな。「…と、言うことは…、何やら意味が深そうだね。」こもって、考えてるだけじゃなく、外に出て、ちゃんと真実を見ろって感じ?事実を見てるようでも、まだ障子越しじゃないかって?
「なるほど、ここで、いろいろな句から、さまざまな風景を、思い描いてないで、先に進んで、現実の風景を見ろとか?」それ、諷詠の径の自己否定?

代官所 本陣よりも 大木が
坪内逍遥ゆかりのムクノキ。
「ここ、坪内逍遥さんの、生まれ故郷なんだね。」生まれてから、十歳くらいまで、ここで、暮らしたのかな。「幼い頃の風景の中の、ムクノキってこと?」
そうだね。六十一歳の時、奥さんとここを訪れて、このムクノキを背にして、写真を撮っているね。

ムクノキが 菩薩さまの 偉大さを
虚空蔵堂。
「なんか、祠は、こぢんまりとしているけど、すごく、大きく感じるね。」たぶん、おそらく、うしろの、ムクノキのせいじゃない?「これ、さっきの坪内逍遙さんのムクノキね。」

大きなる 足跡百と 五十年
太田小学校。
「確かに、大きそうだね。このおじさんの足跡。」何いってるの!校長先生に向かって!「こ、校長先生なの?」m(_ _)m。
ここ、太田小学校は、最初は、明道義校として開校。「明道義校…、カッコいい名前だね。もし、今もそのままの名前だったら…。」だったら?「低学年の子なんか、名前書くの時間かかって、泣きそうになるね。」何、言ってるの!「m(_ _)m。」
去年、150周年事業として、校庭で、全校生徒で校章の形に並んで、セスナから写真を撮ったそうな。「いい思い出になるね。」
他の国の 出先も今は 皆ここの子
太田小学校。
ここは、もとは、尾州藩の太田代官所が、あった所らしいね。坪内逍遥のお父さんも、代官所の役人だったそうな。
「…、という事は、尾張藩藩士の子。」そう。「絶妙のタイミングでの生まれだね。そのまま、江戸時代が続いていたら、真面目なだけの武士で終わっていたかも。」
代官所も、小学校になって、百五十年も経てば、地域の人、全員、ここの子供だね。

目を奪う 緑輝く お手玉か
太田宿中山道会館。
これは、見事だね。「なんか、鳥の巣みたいだね。しかも、枯れ枝なんかじゃなくて、生き生きしている。」
人の手を加えて、作ったような感じだね。「現代芸術家…くずれで、家業を継いだ、遊び心のある植木屋さんが、やったのかな?」 どんな人? 棟梁、怒ってるけど、見惚れていたりしてね。笑。

ちさき春 こんなところで 越年し
太田宿中山道会館。
いや〜、見事。これ、ベースになっている木は、エノキ。そして、丸い珠は、寄生しているヤドリギ。
「エノキは、冬は落葉して、冬枯れ状態なのに対して、ヤドリギは、年間通して、生命力あふれる緑なんだね。」
そう。今はちょうど、そのコントラストが、際立っていて美しいね。いい時に、来たね。
「西洋では、神聖なパワーをもつ木、幸運を呼ぶ木、って、言われているようだね。」
案内板にも、ヤドリギの下で、愛を誓うと、二人の愛が永遠に続くと言われていますって、あるね。「いいね。」

父さんは? 太郎にかの子は 知ってても
糸遊庵。
岡本太郎は知ってる?「知ってる。太陽の塔、芸術は爆発だ!」
岡本かの子は?「名前だけ知ってる。太郎のお母さん。」
じゃぁ、太郎のお父さんは?「知らないな。」
そのお父さんが、最晩年に暮らしていたのがこの町。住んでた家が、ここに移築された、この糸遊庵。「ふ〜ん。」
お父さんは、岡本一平。総理大臣の名前は知らなくても、岡本一平の名前を知らないものはいない…と、言われたくらいの、大正・昭和戦前の人気漫画家。「へぇ〜、そんなにすごい人だったんだ。」
爆発の 火種は岐阜の 日常に
糸遊庵。
「爆発って、芸術?」そう。岡本一平さん、最初は、ここ太田宿の木曽川に合流する飛騨川を遡ったところにある、白川町に疎開してきたそうな。そこで、狂俳に、触発されたらしい。
「狂俳って??」
(お題:鶯の声) 猫背伸ばして 空仰ぐ
糸遊庵。
狂俳って言うのは、与えられたお題に対して、五・七、または、七・五の十二文字で、作られた句だそうな。
「たったの十二文字? 俳句よりも、短いね。」そう、世界で一番短い定型詩と言われてる俳句の、さらに上をゆくね。
「これ、初めて、聞いたけど?昔から、あるの?」江戸時代中期、十代将軍家治の頃からあるようだね。しかも、これ、岐阜が、発祥の地みたいだね。「なんとね。この地域、文化的なレベル、高い?」そうだね。地元の方と会ったら、いい句できました?…って聞けば初対面でも、話が弾んだりしてね。
「旅人さんは、狂俳、知ってたの?」当然!「そう?発祥の地の碑が、通ってきた岐阜公園にあったらしいけど、素通りしたよね?」…、ぬぐ、ぐ…。「狂俳第一世と言われる人の句碑が、通ってきた美江寺観音にあったそうだけど、写真、とった?」…、うぬ、ぬ、ぬ、ぬ…。すみません。五分前に知りました。m(_ _)m。

バランスや うだつあがれば 気を遣い
脇本陣林家。
太田宿脇本陣、林家住宅。家の端っこの、そのまた先っちょの瓦に、目が引かれるね。「なんか、江戸時代の火消し、加賀鳶の梯子登りのように、両手を広げて、バランス取ってるように見えるね。」
まっ、うだつのあがらない我々には、気が落ち着かないモノなのかね。

怖いモノ 無しのうだつに 瓦かな
脇本陣林家。
「怖いモノ無し?」地震雷火事親父って言うけど、火事に強いうだつだけど、自身にも耐えたのかなって。「地震って、明治の濃尾大地震のこと?」
そう。この建物は、江戸時代のもの。つまり、濃尾地震を耐えきってるってことだよね。「そうだよね。あの、うだつの先っちょの瓦も、無傷のままだったのなら、大したものだね。」拝んどこ。

話する 相手が居れば 極楽よ
祐泉寺。
「極楽?」そう、祐泉寺には、播隆上人と、志賀重昂(しげたか)さんが、眠っておられる。
「播隆上人といえば、槍ヶ岳に初めて登り、登山道の整備を進めた方。」そう、各務原に、名号碑があったよね。
「志賀重昂さんって?」日本ライン名付けの人。「そうなんだ。」…でもあるし、日本風景論を出版し、外国と比較して日本の土地・風景の優れた点を主張している。特に山に関しては、熱を帯びてるそうな。これが、ベストセラーとなり、後に日本山岳会の名誉会員になっている。
「なるほど。上人とは、とっても、話が盛り上がりそうだね。」

飛ぶ鳥を 撮ったためしは 無いけれど
美濃加茂市下古井。
変わった鳥だと思って撮影したら…。「うそ、つけ!」 m(_ _)m。
大空で爆音がしたので、見てみたら…。「見てみたら?」 何も見えない。「まぁ、そらそうだろうね。雲無く、晴れ渡ってると言っても、戦闘機は、小さいからね。」
で、適当に、音のする方向で、音速分だけ、ずらしてシャッターを切ると…。「うそ、つけ!」m(_ _)m。
たぶん、各務原にある航空自衛隊岐阜基地のF15戦闘機…かな。戦闘機なんて、初めて見た。「でも、鳥の撮影よりも、戦闘機の方が、簡単そうなのも、面白いね。」

激動の 歴史の流れや 木曽の川
岡本一平旧宅跡。
「岡本一平さんの、住まいは、ここにあったんだね。」 先ほど、太田宿中山道会館にあった、糸遊庵だね。句碑もあったよね。
木曽川と 枕を並べ 昼寝かな
(岡本一平)
「本当に、木曽川のすぐ横っちょだね。この句を、ここに立って詠むと、無茶、でっかい人物に見えるね。」
ここに、住まわれていたのは、終戦の次の年、疎開地から戻っての約二年間。ここで、その生涯を閉じている。
「やっぱり、彼の作品にも、木曽川が影響を与えているのかな?」

春風か 誰も居ぬけど 陶板画
美濃加茂市 御門町。
「木曽川の堤防の一番上、何か、絵が、並んでいるね。」 これは、子供たちが、描いた絵だね。
「いいね。どの絵も、無邪気な元気さが、出ているね。」 そうだね。この陶板画、何十メートルも続いているんだけど、ここの場所だけ、沢山の子供たちが、はしゃいでいるみたいだね。「市内の子どもたち、全員が集合してね。」
でも、子供達は、もう、大きくなっているだろうね。「おっさん、おばさん…。お腹の出た…。」 おいっ! 「m(_ _)m。いやいや、いい思い出に、なるよね。いいね。」
子供たち 住民みんなの 底力
美濃加茂市 御門町。
この陶板画は、平成の初めに、木曽川激甚災害対策特別緊急事業として、護岸築堤が造られた際に、はめられたもののようだね。「激甚災害?…、対策の…、特別緊急事業?…。」
そう。昭和五十八年秋の台風十号によって、坂祝町から、美濃加茂市の、木曽川堤防の十分に整備されていなかった低い所から水が流れ出し、軒下近くにまで浸水したそうな。「…なんとね。」
しかも、浸水が始まったのが、夕方。避難指示が夜七時。未明に最大に達したそうだから、その時の混乱は、想像を絶するね。
「そうか…。それの復興の整備事業の陶板となると、思いが変わるね。」そうだね。無邪気な元気さと言うより、みんなの底力みたいなものを感じるね。

振り返り ロマンチックな 景色見て
美濃加茂市 御門町。
「ちょっと聞くけど…。」何?「ここまで通ってきたロマンチック街道だけど、これも、堤防整備の一環?」
よく分かんないけど、激甚災害対策特別緊急事業で整備された堤防の範囲と、ロマンチック街道の範囲は、ほぼ同じだね。「なんとね。かる〜い感じのロマンチックの響きが、深く、重くなるね。」

背に乗りて 木曽の流れを スイスイと
アメンボーグ。
「一瞬、猪さんかと思ったけど、脚が六本あるね。」 アメンボだね。「アメンボって、脚は四本じゃないの?」 六本。前脚、小さいからね。
「これに乗って、木曽川を行き来出来たら、日本ライン下り再開だね。」そうだね。川上りも、できたりしてね。

仔象さん 耳にくるまり 昼寝かな
Water Pleces(水の断片)。
「仔象さん…ですか…。」どう?「見ようと思えば、見えなくもないけれど…。」 正解は?「水の断片。」
う〜ん、やっぱり、日本ラインのあたりの断片?「さ〜。」おいっ!

お互いに ビックリしたかな 化石林
化石林。
「化石…林…?」そう。あの、川面から、ちょっとだけ、頭出してる、小さな岩。「あれが?化石?」そう、木の化石…、たぶん…、おそらく…。「どうなの?」…。「単なる岩じゃないの?」
今から、30年くらい前、木曽川の水量が極端に減った時に、立った状態の化石林が、水面から出てきたそうな。「そんなことが、あったんだ。」その数、425本。「そんなに?すごいね。地元の方でも、驚いたんじゃない。」
きっと、ニュースに出た次の日くらいに、老若男女問わず、岸やら橋やらに集まったんじゃないかな?「怪獣映画の最初の、謎の怪獣登場シーンのように?」なんか、光景が浮かんでくるね。

渡し場も 顔色見つつ 上流へ
今渡しの渡し。
「渡し場も、微妙に、変わってるの?」 微妙なんてもんじゃないようだね。「??」
今渡しの渡しって言う名前からして、今現在のって、感じじゃない?「確かに。」
それに、ここの渡しは、中山道三大難所のひとつに数えられていたようだね。
木曽のかけはし
太田のわたし
碓氷峠がなくばいい
と、言われていたそうな。この渡しの前は、1.5キロほど下流の土田(どだ)の渡し、さらにその前は、10キロも下流の犬山城のあたりで、渡川していたようだね。「犬山まで…、でも左岸は、見てきた通り、断崖絶壁で、通れるような感じしないけど?」
そこは、通っていないと思うよ。今の名鉄広見線が通っているラインじゃないかな。「本当に、難所だったんだね。」

日清と 日露の頃も 渡し船
今渡しの渡し。
「えっ、そうなの?」 大規模な陸戦、海戦を交えた日露戦争、されに言えばその後の第一次世界大戦が終わった後の、昭和二年に、この太田橋は、できたそうな。
「何とね。日本海海戦をやってる時は、まだ渡し船だったんだね。」 同じ時代の風景とは、思えないね。

渡し船 馬さえここは 神妙に
今渡しの渡し。
太田橋を渡ったところにある、今渡しの渡し場跡の碑。「渡し船に、お馬さんも、乗っているね。」
荷台も、荷車乗ってるね。「これ、当時も、本当に、こんなふうだったのかな?」
まさに、人馬一体、って、感じだね。

往来の 波に呑まれて 大急ぎ
恵土一里塚。
「一里塚だけど、ひと息つきたいような感じじゃないね。」
そうだね。国道21号線、片側4車線でもって、トラック、バンバン走ってるからね。「自然と早歩きになっていくね。」

車線数 減って脱力 旧街道
上恵土。
「は〜、なんか、急に、スピードダウンだね。」
そらね。トラック、バンバンの4車線の道から、2車線の道に入ったからね。雰囲気は、ここも旧街道じゃないけど、先の道に比べたらね。

会釈して 膨らみ加減に 通りゆき
上恵土神社。
しめ縄が、張って囲んであるね。「何かは、分からないけど、聖なるもの、土地なのかな?」
思わず、ちょっと距離をとりながらも、挨拶しちゃったね。

病身と 聞いてはいたけど にこやかに
子規碑。
「正岡子規の句碑?」そう。
すげ笠の 生国名のれ ほととぎす
(正岡子規)
「この時、すでに、病身だったの?」そのようだね。喀血もしており、東京大学国文科を退学して、故郷への帰路、木曽路を通ったときに、伏見宿の木曽川の湊、新村湊で詠んだ句だそうな。
でも、見た目、明るくって元気そうだよね?「それって、句碑の上に見える菅笠の旅人さん?あれは、御嵩町観光案内板のイラスト‼︎」

慣れてきて なんまいだより こんにちは
播隆上人名号碑。
こんちわ〜。「播隆上人、知ってるからって、ちょっと、馴れ馴れしいんじゃない?」m(_ _)m。
2024.03.10.:
岐阜駅から、鵜沼駅まで、てくてく。
記事では、赤坂の地蔵堂まで。
2024.03.14.:
鵜沼駅から、名鉄明智駅まで、てくてく。
記事では、村国真墨田神社から。
鵜沼 > 太田 | 伏見 > 御嵩