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勝ち戦 祈願の神が 商いに
岡山烽火場:黒田長政の陣の後ろにある金毘羅神社。
関ヶ原の合戦の折、黒田長政の陣に加わった生駒一政が、捧持してきた地元金毘羅大権現の御神像を松の枝に掛けて戦勝を祈願したのが始まり。
合戦後、この神像を村人がもらい受け、祀ったそうな。その後は商売の神様として、関ヶ原村全体の崇敬を受けたとのこと。「きっと、ここ一番の大商いに強いのかもね。」

秀吉の 両参謀の 子が並び
岡山烽火場:黒田長政と竹中重門の陣。
紺色の藤巴紋の旗は黒田長政、白色の丸に九枚笹紋は竹中重門。いや~、いい眺めだね。天下を取った秀吉の参謀、官兵衛と半兵衛の子が揃って陣を構えてるなんてね。
「烽火場って?」 狼煙をあげるところだね。ここから関ヶ原全体を眺めて、全軍に対してベストのタイミングで合図をするのかな。
「仮にだけど、官兵衛と半兵衛二人揃って、ここにいてたら、戦はどうなっていたろうかね?」 そうだね。最後まで生き延びるべく、二重、三重の寝返りを仕込んで、いろんな色の狼煙を上げていたりしてね。m(_ _)m

八割の 仕事を終えて 着陣し
黒田長政の陣から、松尾山の小早川秀秋陣を臨む。たぶん。
黒田長政は、関ヶ原では大活躍だったようだね。小早川秀秋、吉川広家の寝返りを交渉したとか。このふたりの行動で、大勢が決まったようなものだからね。
しかも、九州にあって天下を狙っていたんじゃないかと言われる自身の父親:黒田官兵衛の野望を木っ端微塵に打ち砕くことになるんだからね。すごいね。

親は子に 子は親に目が 点になり
黒田長政の陣。
「黒田官兵衛は天下を狙っていたの?」 みたいだね。九州で縦横無尽に暴れていたら、自身の息子の活躍で、西軍がたった一日で敗れ去ったとの報。目が点になっただろうね。
一方長政は、戦後家康自らが三度長政の右手をとり感謝したことを父に伝えると、『そのとき、おまえの左手は何をしていた!』つまり、家康の首を取れる好機に何をしていたのかと。「やっぱり、目が点になるよね。」

これはムリ 見上げた先に 馬防柵
島左近の陣。
「『三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城』の島さんですか。」 長い肩書きだね。
普通なら三成は、文官って言う感じだから、敵は舐めてかかるかと思うけど、武闘派で名前の通っている重臣が前面に立っていると、怯むよね。
そう、『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と、徳川方も恐れたそうだけど、それだけじゃなくて、戦の様子を後で語ったところによると、人によって指物、陣羽織、具足にいたるまで、記憶がばらばらだったとか。それだけ恐ろしさであまり覚えていなかったとか。

馬防柵 時は移ろい 客招き
島左近の陣。
この馬防柵、何重にも設置してあったら、きついね。攻める方からすると、かなりのプレッシャーだね。
でも、いいね。これがあるだけで、馬とか、戦のスケール感がなんとなく分かるような気がするね。「いいアイテムだね。」

奮い立つ 見晴らしよすぎの 負け戦
石田三成の陣。
「見晴らし いいね。 さすがわ全体を指揮する本陣だけのことはあるね。」
いや~、でも、劣勢で、見渡す限りの敵兵が、こっちへ向かってきている光景なんて、想像もしたくないよね。
終盤に敵中央を突破したことで有名な島津義弘でも、陣所がここだったら、むりだったんじゃないかと思うね。
やって来た 毛利じゃなくて 家康が
石田三成の陣。
写真の左から4本目の旗差物のすぐ上、家並みの中に左右に細長く木々があるところが、家康最後の陣。「近いね~。」
そう。毛利軍がいる南宮山は、写真左奥の山。「遠いね~。」 これ、最初っから毛利はやる気無かったって感じを受けるね。向こうからだと、戦場、見えてないんじゃない?

工場が 大きく陣取る 関ヶ原
石田三成の陣から。
写真左の旗指物の上、なんか幕が張ってあるような変な建物が古戦場記念館。それに続く森が家康最後の陣。
「にしても、工場、でかいね。」 そうだね。ここに立って、まず目に入るのは、工場だもんね。でも、なかなかだよ。中途採用もしているし、育休復職率も100%だし、研修や資格取得支援も充実してるし...。「なんの話をしてるの!!」
「何造ってるの?」 商船機器や船舶用特機などなど。そう言えば、関ヶ原の合戦には水軍は参加してなかったのかな? 「なんの話をしてるの!!」

動いたか? 旗差物は なびくだけ
石田三成の陣から、小早川秀秋の陣を臨む。
「なんか、旗差物、見えるね。」 そうだね。遠いような、近いような。
「実際の距離感として、思うんだけど...。」 何? 「旗の数とか、いくらでもごまかせそうだね。思いっきり増やしたり。置いてそのまま動いたり。」
そうだね。戦の最初の方は、旗はそのままにして涼しい顔を装って、実際には全員でどちらが優勢か、見に行ってたりしてね。m(_ _)m。

戦国の 時代に似合わぬ スローガン
石田三成の旗差物。
「だいだい、だいきち、の石田三成の旗差物って、神頼みのおみくじみたいだね。」 何を言っているのやら?
『だいいち・だいまん・だいきち』って読むみたいだね。「ほんとだ。一と万が書いてある。m(_ _)m」 意味としては、『一人は万人のために、万人は一人のために尽くせば、世の中は吉:幸福になる』という意味みたいだね。
「へ~、すごいね~。これって、そんなに高尚な言葉だったの? なんか現代の教育を受けた人が言っているみたい。石田三成って、ホントに戦国時代の人?」
武士も 知らぬ花咲く 古戦場
石田三成の陣を見上げる。
「天下分け目の戦のあった地に、今も静かにコスモスが。きれいだね。」 結構、コスモス、咲いてたよ。
「関ヶ原の戦いって、季節はいつだったの?」 本戦があったのは、西暦1600年9月15日だね。今の暦でいうと、10月21日。「今日は11月5日だから、雰囲気的には、ぴったりなのかな? 当日も、コスモス、咲いてたのかな?」
コスモスが日本に入ってきたのは、明治12年だそうだよ。「なんと。秋桜って書くから、昔からあるものとばかり...。大体、日本の風景に合ってるよね、これ。」

南宮山 おそらくたぶん 食事中
石田三成の陣から、決戦地への道。道路が続いている先に旗差物が立っているのが決戦地。その奥の遠くの山が毛利の陣:南宮山。
「いや~、ホント、南宮山、遠いね。」 戦闘のタイミングを見て、長束正家から毛利秀元に戦闘参加の急使が来たが、麓で東軍に内通していた吉川広家が邪魔をして動けなかったので、『今、兵が食事している最中なり』と言って、時間を浪費したとのこと。
「なんか、ビシッと裏切ってる方が、カッコイイような。m(_ _)m」 うん、あの世で、最前線で戦っていた島左近に、滅多切りにされてるんじゃない。m(_ _)m
敵味方 旗のみ揺れる 決戦地
関ヶ原に来て、まず目に付いたのは、各武将の旗差物。いいね、これ。古びた石碑とかが、あるだけじゃなくて、関係するところには、必ず旗差し物が立ててあるね。
確かに、旗差物が風に揺れているのを見ると、戦の悲惨さ・過酷さじゃなくて、戦の前の意気込み・手柄を立てるぞ感があって、いいね。明るいし、遠くから見ても、どこに陣があるか分かるからね。
「これ、観光課の人が立ててるの?」 なんか、一般の商店でも、店先に立ててあったりするよ。ひょっとして、子孫なのかな?m(_ _)m 「いやいや、落ち武者の子孫じゃない? m(_ _)m」

激戦の 中でこんもり 森島津
島津義弘の陣。
関ヶ原の古戦場の中で、こんもりとした森、小池神明神社。この本殿の裏側あたりに、島津義弘の陣跡がある。
「島津義弘は、最後まで動かなかったそうだけど、なんでかな?」 石田三成の伝令が無礼な態度をとったからとか、言われもするけれど、実際には井伊軍と交戦していたという説もあるそうな。有名な敵中突破の時点では、兵の数もかなり減っていたようだしね。
この神社の森も、当時のままなら、その木々大きさも手伝って、不気味に見えたのかもしれないね。なんといっても鬼島津と言われた島津義弘が陣の森だからね。ここを攻めるのなら、小西や宇喜多を攻めようかと...。m(_ _)m

先駆けで 敵中突破 していたら
島津義弘の陣のあった小池神明神社。
「もしも、だけれど...。」 なに? 何?「島津義弘が先駆けで敵中突破していたら、どうなってただろうかな?」 そうだね、開戦時の家康の陣は、ずっと後方だけど、敵中突破していたら...。「していたら?」
家康の本陣は踏みつぶされて、家康も戦死しているだろうね。でもって、東軍も西軍もみんな、戦わずして、目が点になっていたかもね。m(_ _)m

のんびりと 八分歩けば 家康の
徳川家康最後の陣。
先ほどの島津義弘の陣があった小池神明神社から、ここまで、歩いて8分。「近いね~。」不動産屋さんの計算式だと、6分。駅近だね。「何を言ってるの?」
馬で戦わずに駆けるだけなら、1分で到達するかもね。戦勝気分が漂いだしている中での、島津義弘の敵陣中の中央突破は、インパクトあっただろうね。「そうだね。本陣の兵たちは、さぞかし肝を冷やしただろうね。」
報告を 受ける頃には 目の前に
徳川家康最後の陣。
いや~、島津義弘の陣から家康最後の陣まで、実際に歩いてみると、ホント目と鼻の先だね。
『島津勢がっ!!』とか言う前に、突っ込んできているという感じだよね。本陣じゃ、上から下まで、一体誰が突っ込んできて、何が起こっているのかも分からなかったんじゃない?

関ヶ原 ずっと気になる 建物は
関ヶ原古戦場記念館。
関ヶ原に入ったときから、ず~っと気になっていた建物。なんと言っても、変な形の建物だからね。m(_ _)m。
でもって、最上階の物見櫓的な展望台からは、関ヶ原中の陣所が見渡せるようになっている。「町中を博物館の展示スペースにしちゃったって感じだね。」 日本最大の展示スペースだったりして。
建物もきれいだし、観光客も、すご~く、多かったよ。ここまでの各陣所では、たま~に、巡っている人にも会った程度だったけどね。

両軍の 旗が整列 記念館
関ヶ原古戦場記念館。
旗差物、かっこいいね~。まあ、デザイン的だけなら、小早川秀秋の違い鎌かな。いずれにしても、東軍・西軍ともに、戦国時代をこの時点まで勝ち残ってきた歴戦の勇者たちの旗差物だからね。
「ネットで検索したら、売っているよ。 机の上に置けるミニチュア版もあったりして。」 なんか、いそうだね、そういう人、職場にも。「いやな仕事に巻き込まれないように、並べて置いたらいいかも? m(_ _)m」

鉄砲の 脅しも遠き 松尾山
関ヶ原古戦場記念館の展望台から。
写真中央の工場の屋根の上に見える手前の山が、小早川秀秋が陣取った松尾山。「結構、遠いんだね。」 そうだよね。望遠レンズで覗けば旗差し物が見えるけどね。
内通している小早川秀秋がなかなか裏切らないので、しびれを切らした徳川家康が、小早川の陣めがけて鉄砲を撃たせ、それに驚いた小早川が西軍の陣に攻め込んだって、よく聞くけど、随分遠いよね。「鉄砲を撃っても、聞こえないんじゃない?」 そうだよね。

見晴らしが いかに良くとも 裏切りは
関ヶ原古戦場記念館の展望台から。
写真中央の少し左に、2段になってる陣は、石田三成と島左近の陣。ここの展望台は、いいね。360度見渡せて、それぞれの方向に写真付で各陣所が示してあるし、フロア中央には関ヶ原全体の航空写真、それを囲むように陣形のソファまで置いてあって、しかも...。「しかも?」 当初、寄るつもりじゃなかったから、ここで随分時間使って、予定遅れて...。「何を言ってるのやら...。」
まあでも、裏切りまでは見通せないから、見晴らしは関係ないかもね。

同郷の 同士で戦 最前線
田中吉政の陣跡...というか、ほぼほぼ家康最後の陣と同じ、かつ、ほぼほぼ古戦場記念館と同じ場所。写真の後ろに写っている旗差し物が、記念館。
田中吉政は、石田三成と同郷。石田三成を捕まえた人として知られているね。「両人とも心境、複雑だったろうね。」 吉政は三成を手厚くもてなし、三成も捕まった相手が吉政でよかったと言ったとか。
「いい人だったんだね。」 でも...。「でも?」 本陣の場所を初めて知ったけど、ここって、敵陣正面の最前線。一説によると、島左近を討ち取ったは田中吉政の軍とも言われているね。人がいいだけの武人じゃなさそうだね。
知らずとも あの町この町 今に生き
田中吉政の陣跡。
田中吉政は、もともと関白豊臣秀次の家老。「えっ? 秀次に連座して粛正された人って、かなりいたような?? 吉政は家老だったのに助かったんだ?」 助かったどころか、秀次によく諫言し続けてくれたとのことで、加増されている。
しかもこの人、家老だったときに秀次の居城だった近江八幡をまかされ、有名な八幡堀を造った。「ほう!」
秀次の事件以後独立して岡崎城主になれば、城の近世城郭化、城下町に堀を造り、湿地を埋め立て、東海道を城下に通して『岡崎27曲がり』を整備した。「ほう!ほう!」
関ヶ原後に筑後柳川32万石の領主となれば、水運の掘り割りの整備、稲作のための用水路の整備、街道の整備、堤防の整備だけじゃなくて、有明海の干拓もやり出したほど。「ほう!ほう!ほう!」
「すごい人だね。でも、田中吉政って江戸時代に入ってから、聞かないけど?」 息子が跡継ぎを残さずに亡くなったので、改易されたそうだね。「なんと。なんだかな~、って感じだね。」 でも、それぞれの町にその足跡は残っているね。

隼が 北国街道 吹き抜けて
北国街道。南の方向。
左側の木々のこんもりとしているのが家康最後の陣、田中吉政の陣。突き当たりあたりの左側が井伊直政の陣、松平忠吉。さらに突っ切っていけば進めば、伊勢街道と名前を変えたうえで、本多忠勝の陣が並ぶ。
「すごいね。島津義弘は、関ヶ原の合戦の最終盤で、これら敵陣を突っ切って行ったんだね。」

年重ね 見上げるばかりの 塚となり
東首塚。
左のお堂は、昭和15年に名古屋市内から移築されたものだそうな。もともとの首塚は、昭和初期の記録では、高さ1.5メートル、周囲9メートルとあるけど、今はその姿をとどめていないようだね。写真の右のスダジイの大木がその首塚なのかな。
関ヶ原の戦いの戦没者の数は定かではないけど、相当な人数にのぼると思われるから、塚や碑よりも大木の方が合っているように思うね。
首塚や 味方も敵も 供養され
東首塚。
「東首塚って、東軍の戦死者の塚?」 そうじゃないみたいだね。関ヶ原には東首塚と西首塚があるけど、単に東側にあるので東首塚、供養されているのは、敵味方関係なく両軍の戦死者のようだね。「敵味方区別なくっていうのは、当時の感覚なんだね。」
二人とも 戦の傷で 早く逝き
井伊直政、松平忠吉の陣跡。 舅と婿どのだね。
東首塚のスダジイの大木のすぐ後ろに陣跡の案内板がありました。「これ、陣のすぐ前を島津勢が横切って行ったって感じだよね。」 これは、見過ごせないよね。
まあ、島津豊久を討ち取って名をあげたものの、その時の怪我がもとでとも言われて、二人とも早くに逝っちゃってるね。井伊直政は1年と少し後に42歳で、松平忠吉は6年後に28歳で。
「深追いしなけりゃ、歴史は変わっていたかな?」 将軍家跡継ぎとか、別の意味で変わっていたりしてね。m(_ _)m

大谷の 伝令!車に 気をつけて
北国街道を行く飛び出し伝令。
この旗印は、大谷吉継かな? 「なぜ?なぜ? 家康の最後の陣のすぐ前に大谷吉継の伝令が?」 すゎ~...?? 「な、何を伝えようとしていたんだろうかね。」 そりゃ~、『飛出し注意』でしょ!

陣跡の ススキは今も 東へと
小西行長の陣跡付近。
関ヶ原の合戦は、1600年9月15日、今の暦で言うと10月21日。今日が11月5日だから、季節はピッタリだね。「今まで季節なんて考えたことなかったけど、400年前もこのような景色が広がっていたのかな。」 なんか、夏草よりも、無常観があるね。
文治派の ようで武断の 小西勢
小西行長の陣跡付近。
「武断って?? 薬問屋の小せがれで、石田三成の友だちで、文治派じゃないの?」 いや~、なかなかどうして、武断派的な人じゃないのかな。
文禄の役では、加藤清正を出し抜いて先鋒をつとめているしね。ひよっとしたら、朝鮮半島の人から見たら、徳川家康なんかを差し置いて、一番名の知れたな日本の戦国武将なんじゃないかな。知らないけど。「おいっ!」
自害せず この時までなお クリスチャン
小西行長の陣跡付近。
小西行長は最後は、京都の六条川原で斬首されたそうな。「クリスチャンだったので、自害は出来ないんだね。」 でも、変だね。秀吉のバテレン追放令は、関ヶ原の戦いの13年も前に出されているし、その際、高山右近は領地も財産も捨てて信仰を選んでるよね。
しかも、その高山右近を庇護していたのが、小西行長だから、訳分からないね。「う~ん、右近は布教していて、行長は一信者だったからとか?」 まあ、バテレン追放令って、聖職者の追放令で、信者は関係ないしね。「そうなの? 迫害されてないの?」 追放令では大名以外は信教自由とあるからね。 「なんと。」
まあ、追放令で言うところの、家臣・領民を無理矢理キリスト教に改宗させるとかがなければクリアしているとの認識なのかな? まあ、秀吉さん、トラブルがなければ翌年には追放令のこと、忘れていたとかね。m(_ _)m

自動車が 新幹線が 鬨の声
松尾山、小早川秀秋の陣から。
中山道随一の難所、松尾山。「それ、違うでしょ! 街道、通ってないし。」
実際に、小早川秀秋の陣に立ってみると...。「立ってみると?」 姿は見えないけど、名神高速道路を行く自動車の音とか、新幹線の音が、結構、聞こえてくるね。「確かに!」
...ということは...。「ということは?」 写真中央の横長の工場の上あたりが、徳川家康最後の陣だけど、あそこで鉄砲放てば、音は聞こえるね。きっと。「なるほど、そうだね。」 まあ、誰がどこへ向けて放っているのかは、全く分からないだろうけどね。
「じゃ~、裏切り待ちのしびれを切らせた家康が、秀秋の陣めがけて鉄砲を放ったっていうのは、結局、秀秋の周囲の人が言ったもの勝ち的な感じ?」 そのようだね。家老だった春日局の旦那さんの稲葉正成の不安をあおる大声と演技力が関ヶ原の勝敗の決め手だったりしてね。m(_ _)m。
全国の 車が西へ 東へと
松尾山、小早川秀秋の陣から。
関ヶ原の合戦では、ほぼほぼ日本中の戦国武将たちが対峙したけど、今も、ここは交通の要衝、高速道路に新幹線、絶えず通過音がしているね。日本中の物流がここを通ってるって感じがするね。
でもやっぱり、この通過音、これだけ山登っても聞こえるというのは、一番意外だったよね。

最後まで 動かざること 如しかな
松尾山、小早川秀秋の陣跡。旗差し物の後ろは、伊吹山。
「『風林火山』の『動かざること山の如し』っていうのは、この時の小早川秀秋には当てはまるの?」 まあ、実際のところは分かんないし、映画・ドラマでは、結構臆病者みたいな感じで描かれているけど、風林火山の実践者だったら、すごいよね。
あの合戦の中で長時間動かないのは、すごく胆力がいるだろうし、ギリギリまで自分の価値を上げたうえで、動いたのならまったく大したものだろうね。
三成「小早川は、まだ動かないのか?」
秀秋「動かざること、山の如く」
家康「小早川から、裏切りの返事はまだか?」
秀秋「しずかなること、林の如く」
吉継「おのれ小早川、裏切ったな!!」
秀秋「はやきこと、風のごとく」
吉継「小早川め、三年の間に必ずや祟りをなさん!!」
秀秋「恨まれること、烈火のごとし」 m(_ _)m
一度だけ 登って降りたら 脚にきて
松尾山、小早川秀秋の陣跡。
「ここ、登るのに、どれくらいかかったの?」 40分くらいだろうかね。もう、脚が痛くて。山頂から、突撃って言われてもダメ。私には合戦はムリだね。「よかったね。今の時代に生まれていて。」
でもないよ。「えっ? 何??」 途中で若い二人連れとすれ違ったけど、あれ、女性の方が歴女だったら、あの男性、大変だろうね。延々話は聞かされるは、山は登らされるはってね。m(_ _)m。
合戦図 屏風の杉は 今もなお
福島正則の陣跡の月見宮大杉(月見のみやおおすぎ)。
目通り5.8メートル、高さ約25メートル、樹齢800年だそうな。「ということは、関ヶ原の合戦のときにもあったの?」 あったどころか、関ヶ原合戦図屏風にも、しっかりと描かれているみたいだね。「すごいね、生き証人だね。」
婆さまの 自転車駆ける 関ヶ原
福島正則の陣跡。
写真を撮っていると、いきなり、『こんにちは!!』と、お婆さんが自転車で、武人顔負けのスピードで駆け抜けていった。合戦当日、先駆けしようとしている福島正則の前を、畑仕事のお婆さんが『じゃまじゃま!』と言って突っ切っていくような感じだね。m(_ _)m。「あっ、それで、目が点になっている一瞬を突いて、先駆けを松平忠吉&井伊直政にとられたとか。m(_ _)m」
才蔵も 大杉くんも お目こぼし
福島正則の陣跡。
先陣は福島正則と決められていたが、抜け駆けした者がいる。「誰? 軍律を破る不埒者は?」 松平忠吉と井伊直政。「徳川家康の四男!」 そう、初陣だったので、舅の井伊直政が図ったものかと。
「井伊の赤鬼だから、先駆けて、突っ込んでいったの?」 いやいや、抜け駆けの途中で、このときは福島正則配下だった可児才蔵に呼び止められたが、家康四男初陣の見学とかなんとか言って、すりぬけたようだね。ただし、見学なら小数で行けばとか言われて。「才蔵もあきれたろうね。」 いや、直政本人が、一番あきれていたんでは? m(_ _)m
才蔵は、当時からかなり有名な武勇の持ち主で、大将首を沢山取りすぎて重たくなるので、口に笹をくわえさせて証としたので、笹の才蔵とも言われたそうな。「よくそんな武人にいいわけしたね。 m(_ _)m」

怪しげな 旗の揺れ方 松尾山
大谷吉継の陣跡から小早川秀秋陣の松尾山を望む。
樹間に見える山の稜線の奥から二つ目、小さく白い旗が立っているところが、小早川秀秋の陣所。「結構近いけど、山を下ってきたら即吉継の陣所じゃなくて、谷間を挟んで随分登らないといけないんだね。」
そう、この陣所の間を現在、名神高速道路、東海道新幹線、川を渡って、国道21号線、旧中山道、東海道本線が通っている。実際、吉継は秀秋の謀反を警戒していたようなので、不意を突かれたと言う感じではなく、やっぱり来たかって感じかな。だから、寡兵にもかかわらず、しかも相手は攻め上らなければならないので、三度も押し返したそうな。
ただし、残念なのは脇坂や朽木などが裏切り、横やりを入れてきたので総崩れになったようだね。
顔ハメで 一歩リードの 大谷陣
大谷吉継の陣跡。
「さすが大谷吉継だね。顔ハメ看板も用意して、他の陣営よりも進んでいるね。」 何に関心しているのやら。
「いやいや、大谷吉継は病のため、顔が崩れていて、それを白い布で覆って隠していたとされているが、それを逆手に取っての顔ハメ看板、さすがだね。」 看板置いたのは、観光かの人じゃないの?
「ある茶会で茶碗をまわして飲んだが、吉継の後の武将たちは、みな病がうつるのがいやで、飲んだふりだけしたけど、三成だけはためらうことなくそのまま飲んだそうな。これに吉継は感激したとか。」 これがために、三成から関ヶ原の合戦で西軍に誘われた際に、負けを予測していながら応じたとか言われているね。でも、白い布で顔を覆っていたという記述は、江戸時代中期以降しか登場しないそうだよ。「...なんと。」
刑部殿 暮れゆくほどに 塚でかく
大谷吉継の墓。
陣跡から山奥へ5分ほど行ったところ。いや~、山の中の夕暮れは、なんとも怖いね。刻々と塚も山も木々も大きくなっていくような感覚を受けるね。墓のまわりの木々は、直立不動。まるで刑部卿の従者のような。「スケール感、大きいね。」 さすがわ、西軍にその人ありと言われた大将だね。
手柄より 武士と武士との 約束が
大谷吉継の墓。
大谷吉継は、関ヶ原の戦いの時には、病により目も見えず歩くことも困難だったとか。「なんか、輿に載っているイメージあるのは、それでなの。」
吉継は側近湯浅五助の介錯で自刃。病のため醜い顔は晒さず埋めよと残した。五助は首を埋めるが藤堂高虎の甥:藤堂高刑に見つかる。「不運だね。」
でも...。「でも?」 自身の首と引き替えに、主君の首を埋めた場所を秘めてほしいと依頼した。「それで。」
吉継側近の首を取ったのだから、高虎も大喜びで家康へ報告。しかし...。「しかし?」
家康は、側近なら主君の首の場所も知っていただろうと詰問。でも高刑は武士と武士との約束なので、それは言えないと主張。「家康の前で、肝、据わってるね」
さすがに家康も、これには感心し、槍と刀を与えたそうな。
ちなみに、ここの墓は、本来なら敵方の藤堂家が整備したものだそうな。
2020.11.05.:
関ヶ原の中を、てくてく&車。
黒田長政陣
>車>島左近陣
>歩>石田三成陣
>歩>決戦地
>車>島津陣
>歩>家康最後の陣
>歩>古戦場記念館
>歩>田中吉政陣
>歩>東首塚
>歩>井伊直政陣
>車>開戦の地
>歩>小西行長陣
>車>大谷吉継陣(駐車場いっぱいでパス)
>車>小早川秀秋陣
>車>福島正則陣
>車>家康最初の陣
>車>大谷吉継陣
>歩>大谷吉継墓
う~ん、結構廻ったような、そうでないような。でも結構、みんな近いね。
伝令に 走って戻れば もう終わり
「なに?それ?」
今須 > 関ヶ原 | 関ヶ原 > 垂井