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守山 > 武佐




山守る その寺守る 仁王さま

 比叡山東門院守山寺。
 比叡山を守る東の門。山を守るところから、守山寺。地名の由来になっているのかな?
 でも、すごい重圧だね、仁王さまたち。「何が?」
 三千坊を誇る比叡山を守る東の要、それがこのお寺、そして、そのお寺を守るのが仁王門。すなわち全比叡山の命運は、君たちふたりにかかっている! 「いやな上司だね。」 m(_ _)m
 に、仁王さま! 大変です! 信長が攻めてきました!! 「いやな部下だね。」 m(_ _)m



憤怒なる 門をくぐれば カエルさん

 守山寺。
 仁王さまに一礼して、門をくぐると、すぐ脇の低い台座に、ドングリまなこのカエルさん。う~ん、何だろう??
 天神さんの撫で牛ならぬ、撫でガエル?
 あっ、分かった! 無事帰るのカエルで、守山寺を開いた最澄さんが、困難を乗り越えて、無事に唐から帰国したことにあやかったものじゃない? 「九死に一生を得た的なエピソードはいいけど、カエルさんが登場するでもなく、助けられたわけでもないんでしょ! しかも新しいし、背中に子供も乗ってるし。」 う~ん、謎。とりあえず、拝んで行こ。「調べなさいよ!!」



しるべより メニューに目がいく 昼下がり

 守山宿。奥の道がカーブしているところあたりが、高札場。
 いいですね。道が緩やかにカーブしてきて、反対側に急に曲がっている風景。
 守山宿と書いた電柱の案内板や行燈も、なんか当時からあったような雰囲気でいいですね。
 「でも、ホントに気になるのは、行燈の上の甘いもののメニュー板でしょ!」



無念さも 供養続いて ご利益に

 源内塚。
 平治の乱で都落ちする源頼朝、これを討ち取ろうとした源内兵衛真弘が、逆に討たれてしまう。村人が源内を哀れんで埋葬して、塚を造ったとのこと。
 鎌倉幕府の初代征夷大将軍を襲った人を供養しているの? 「う~ん、たとえて言えば、指名手配されている逃走犯人を捕まえようとして、やられてしまった人を供養するのと同じ?」
 そのたとえを聞いたら、源頼朝って、むっちゃ悪いやつに思えてきたけど。源内さんは日頃から村人に慕われてたのかな。
 「で、ご利益って?」 ”塚の前の丸い石は、捜し物などに霊験があり、軽く持ち上がると願いが叶うと言われていて、現在も参拝者が絶えません”と案内板にありました。


知らぬ街 帰ってきたよな 通り土間

 守山文化交流館。
 町屋をそのまま使ったミニ博物館という感じ。斜め向かいくらいにある天満宮にあった三十六歌仙の板絵や、宇野元総理が収集した安藤広重の木曽海道六拾九次、守山宿・大名行列のミニチュアなどが、二階に展示されている。
 しかしながら、入ってすぐにある通り土間が、一番印象に残ったりしてね。いや~、なつかしいね。


本陣の 跡地も今は 推定で

 守山宿の本陣跡。
 写真中央の電柱の左側。案内板には、”この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。”とあるね。明治以降、街がどんどん変わっていく中で、古きものは分からなくなっていくんだね。「近所でも、新しい建物を見たら、前はなんだったかな?って、よくあるよね。」 まあ、幕末から150年、一世代30年としても、五世代になるからね。


広い世で 敵も味方も この夜に

 木曽街道守山宿の甲屋。(本陣と同じ場所)
 謡曲”望月”に登場する架空の宿。信濃の国の人:小沢刑部が、国元を離れている間に、主君が討たれてしまい。また、その仇から命を狙われたので、守山宿の甲屋の主人となって身を隠していた。そこへなんと、主君の妻子と仇までもが宿泊する。刑部は妻子と打ち合わせて、仇に酒を勧め、さまざまな芸を披露して油断させ、本懐を遂げるというもの。
 「いや~、作品の中に登場すると強いね。いつまでも残るもんね。」 今で言うアニメの聖地みたいなものだね。



ゆく秋や 総理育てし 中山道

 うの家。
 竹下内閣の後の総理大臣:宇野宗佑さんの生家。「すごいね。街道に面しているんだね。」
 宇野内閣は、短命で終わったけど、ず~っと、長く続いていたら....。「続いていたら?」 きっと、滋賀県の県庁所在地が守山市になっていたんじゃないかな。「何?それ?」
 滋賀県では、県庁所在地を狙う自治体が多いからね。「ホンマかいな??」 県下最大の城下町で、国立滋賀大学の本部があり、過去2回移転騒動でもめにもめた彦根市、豊臣秀吉が造った城下町で彦根市より人口の多い長浜市、豊臣秀次が築き、織田信長の安土をも含む近江八幡市、琵琶湖空港で国際線運行も目指した東近江市・日野町、東海道新幹線新駅開業で差を付けたかった栗東市、首都機能移転で大逆転を狙う甲賀市。ね、油断ならないでしょ。m(_ _)m



松並木 昭和三十 年代で

 吉見。
 このあたりは、ゆたかな森林と、きれいな水に恵まれた、天下の景勝地だったとのこと。さらに、松並木もあったそうな。
 「昔は...ね。」 いやいや、そんなに昔でもないみたい。「??」 松並木は、昭和三十年代に伐採されたとのこと。
 「最近ではないけれど、高度成長期が始まるあたりまでは、並木も残っていたんだね。」 なんか、ちょっと残念な気もするね。


森深く つつまれしよな 気もするが

 馬路石邊(うまじいそべ)神社の参道。
 中山道に面して、鳥居があり、そこから続く参道。「先が、見えないね。」 街道から神社入口の神門まで、300メートル以上はあるんじゃない?
 「深いね~。」 いや、長い。「どう違うの?」 参道は、森の中をゆくように見えて、両側は、住宅。住宅の外側には、スーパーやパチンコ店もあったりして、かなり開けてるよ。
 「まあ、そんな風には、見えないけど、参道が長いと、ワクワクするね。」



茅葺きを 気にもとめない 旗、看板

 馬路石邊神社の神門。
 まず、目がとまるのが、屋根。「茅葺きだね。」 ものすご~く、古そうな神社かなって、印象を受けたんだけど...。「旗棹とか、看板とか、賑やかだね。」
 ホント、静かにたたずんでいる感じじゃないね。献血の看板もあるし、今、このときを、イキイキと動いてる感が漂ってるね。「それだけ、人が集う神社なんだね。」


田の中の 仏のような 神にして

 馬路石邊神社の本殿。  「馬路石邊神社って、ふたつと無い、変わった名前だね。」 そのとおり。またの名を、田中大明神。「これまた、どこにでもあるような、名前だね。m(_ _)m」
 「と言うことは、農業の神様?」 御神徳は、人間界の宿命、現世の罪、隠世に対する恐怖、疫病を始めよろずの苦しみ、不幸からの救いと導き、...と書いてあるね。
 「なんか、すごそうだね。短絡的なご利益じゃなくて、悩みをじっくり腰を据えて聞いてもらえそうな感じだね。」



東海道 中山道も 同じ顔

 野洲川橋から見た近江富士こと三上山。
 東海道を草津から石部に向かって歩いているときも、ずっと見えていた目印の山。「ちょうど、この山を挟む形で東海道と中山道が通っているんだよね。」
 富士にたとえられるだけあって、ほぼ円錐形だから、どこから見ても同じ形だね。「滋賀県南部の琵琶湖を臨むところからだと、ほぼ見えるんじゃないかな。」
 そうだね、とても覚えやすい山だと思うよ。山って、よっぽど特徴がなければ、地元の方で無い限り、指さして名前は言えないもんね。「ホント、きれいな山だね。」

同郷の 人でも異なる 原風景

 近江富士こと三上山。
 どこから見ても同じ形で、どこから見てもそれと分かるお山ですが...。「なに? 何?」 時代によって姿が違うらしい。「うそっ!」
 中世以降、三上山も含めてこの周辺の山々は、燃料の採取目的で、木々が伐採が続けられ、はげ山化していったらしいね。「とんでもないね。」 通りかかった織田信長は、街道から見えないところで木を切るようにと、指示したとか。徳川秀忠も、あまりのひどさに、植林と保護を指示し、今の姿に変わっていったそうな。「なんか、信じられないね。」



淡海の海 しれっと埋め立て 野洲の川

 野洲川橋。と~っても長い。野洲川は、琵琶湖に流れ込む川の中でも最大の河川。
 もともとは、八州川だったんじゃないかと言われるとおり、琵琶湖に流れ込む手前で、大小多くの川に分かれてようだね。川の本流も時代とともに、あちこちに流れを変えている感じ。
 河口部分は、度々起こった洪水を鎮めるため昭和54年に放水路が出来るまでは、北流と南流に分かれていて、南流の河口部は、琵琶湖大橋のすぐ北側にあったようだね。「琵琶湖大橋と言うことは、琵琶湖の一番狭いくびれたところだね。」
 と言うことは...。「と言うことは...。」野洲川がせっせせっせと土砂を運んで、琵琶湖を埋め立ててきたってことかな。
 このまま一番狭いところに、土砂を運び続けていたら、もう少しで、琵琶湖は北湖と南湖に分かれるかも知れないね。「ほ~、やるね、野洲川! やることがでかい!」



芸術や 河原一面 布にして

 野洲川橋。
 ここを渡ったところに十輪院があり、そこに松尾芭蕉の句碑がある。”野洲川や 身は安からぬ さらしうす”
 野洲晒の製造工程の風景を詠んだ句だとか。工程の中には、河原で日に晒すというのがあるそうで、想像するに河原一面が白い布で覆われていた感じだろうか。「それって、凱旋門を布で覆うのと同じ? 現代アート?」 う~ん、きっと、壮観だろうね。



寂しくも 境内通る 人多く

 十輪院。
 野洲川を渡ったところにあるんだけど、写真の道路は、元の境内を通っているそうな。「すごい大胆なことするね。」 まあ、そうでもないよ。昔は広い境内だったけど狭くなったり、京都の新京極通りのように各寺院の門と本堂の間が整理されて新しい通りになったり、結構あるんじゃない。
 「でも、交通量は多いけど、お参りする感じじゃないよね?」 いやいや、みなさん車で通りながら、心の中で会釈しているよ、きっと。


山中で まさかの肥満度 チェックかな

 三上山の割岩。
 案内板の下に、”肥満度確認可能”ってあるね。「どこを通るって??」 樹間にある巨大な岩の上部に割れ目があるでしょ。「うん、あるね。」 あの割れ目を通るの。「え~、向こう側、見えてないけど??」
 ここを通らないと山頂へ行けないの...、と思いきや、もひとつの案内板に迂回路が書いてあるね。「で、どうするの?」 まあ、とりあえず、休憩かな。「水飲んだら、通れなく鳴ったりして...」


息苦しい ような岩間の 狭さかな

 三上山の割岩。
 鎖を伝って、割れ目へ。巨大な岩の間を、体をこすりながら、ぎりぎりなんとか通れました。「これ、体よりも幅のあるリュックとかならアウトだね。」
 いや~、すごい迫力だね。巨大な二つの岩の圧迫感が怖すぎ。挟まれてもいないのに、息苦しささえ感じるね。割れ目の通路がジグザブになっているから、最後まで、通れるかどうか、不安。これ、体力よりも、精神力だね。
 


見上ぐ岩 じじばば犬まで 降りてくる

 三上山の山頂に近い岩場。
 今日は、朝早くから登ったんだけど、いや~、おじいさん、おばあさん、犬まで、降りてくるね。みなさん、朝、何時から登ってるのかな? さっきの割岩もホントに越えてきたのかな? この岩場も、ホントに通ってきたのかな。
 トレッキングポール使っている方も多いけど、ぱっと見には、単に杖ついてるおじいさん、おばあさんにしか見えないけど。それで、この岩場...。ひょっとして、仙人?? m(_ _)m



もう少し 登れば雲に とどきそな

 三上山の山頂手前の展望所
 手前の左から右へ流れているのが野洲川、奥の左右につながっている山の山裾の帯が琵琶湖、左の山は比叡山、だと、思う。
 「忘れてない? 中山道は??」 ...、う~ん、中央の2本の橋の奥側:右側が中山道の野洲川橋...、かな。
 あの雲が来る前に、山頂まで行きましょう!



ムカデさん 帰ってきそうな 空模様。

 三上山の山頂。
 三上山にはその昔、お山を七巻き半もするような巨大なムカデがいたそうな。俵藤太:藤原秀郷がこれを退治したという話なんだけど。今日の空模様、あの雲間に長く光っているのって、ムカデさん?



地味なよで 桜木二本 地蔵堂

 何が目にとまったわけでもないけれど、街道に面して、小さいお堂。行畑(ゆきはた)の愛宕地蔵堂。案内板も何もないですね。
 地味ですね。はなやかさが無いけれど...。「無いけれど?」 よくよく見ると、お堂の両側にある木は、桜ですね。「ホントだ!」 ということは。春は...、それはそれは、はなやいで、人も集まって賑やかなんだろうね。「こりゃ~、季節ごとに、街道を歩かないとダメだね?」 えっ!

賑やかさ 春先なんて 目じゃなくて

 行畑の愛宕地蔵堂。
 案内板が見当たらないので、ネットで調べると...。「ん?」 ここすごいね。夏に行畑愛宕地蔵というのがあるそうな。祭りには"つくりもの”が出るらしい。「つくりもの?」
 実は、この先の背くらべ地蔵様のところに案内板があり、それによると、農機具・仏具・スポーツ用品・日常用品など、同じ用途の材料だけで、動物や人物などを表現した”一式つくり物”を、ここ地蔵堂や背くらべ地蔵さまの周辺、あちらこちらで、展示するらしい。
 三百年も続いているそうだよ。「すごいね。地域の文化祭だね。」



結界に 悪霊退散 我が身かな

 行事神社の鳥居の勧請縄。
 いや~、これ、しばらく足が止まって、動けませんでしたね。入って、いいのかな?って。
 そう言えば、滋賀県下の東海道を歩いている時も、見たことのない形の勧請縄があり、地域によって変わるのかなと思ってましたが...。「思ってましたが?」 いろいろ調べると、地域どころか、神社によって全く違うようですね。「そのようだね。ネットで見たら、この近くの新川神社も、変わっているようだよ。」 是非、寄っていこう! 「もう、通り過ぎちゃってるけど!」 ....。
 で、行事神社は、ちゃんと参拝していったの? 何か怖いんで、この位置から一礼して帰りました。「ほ~、悪霊が結界に跳ね返されたってことだね。効果あるね。すごいね。」 おいっ!!



抜かさるも 幸せそうな 地蔵さま

 背くらべ地蔵。
 中山道を行く旅人を守ったと同時に、乳幼児の死亡率が高かった昔、"うちの子も、このお地蔵さまくらいの背丈になれば、後は大丈夫と言われたそうな。
 いいね。この辺の方は、老若男女、み~んな、このお地蔵さまと背比べしたってことかな。なんか、お地蔵さまとの距離が、とても身近に感じられるね。住民みんなの同級生って雰囲気かな。いいね。

背の高い 人が多いと 思いきや

 背くらべ地蔵。
 子供が背くらべをしたと言うには、大きなお地蔵さまだと思ってたら、案内板に、右が背くらべ地蔵さま。左が阿弥陀如来さま、と書いてありました。
 でしょうね、子どものときに、左の阿弥陀如来さまを抜く背丈だったら、すごいよ。日本で一番身長の高い自治体とか? m(_ _)m



藁葺きに 写真撮りつつ 近づいて

 暁酒造さん。
 藁葺きだね。...と言っても、ここはものすごく山の中でもなく、東海道本線の新快速が止まる野洲駅から歩いて10分程度の街の中。「よく、残ってるね、と言うよりも、おしゃれって感じかな。」 そうだね。コマ送りのアニメのように、随分、写真を撮りました。



振り返り もう一、二枚 撮影し

 暁酒造さん。
 藁葺きを維持していくのも、大変だろうね。
 振り返っても、素敵だね。街道の曲がり具合、こっちもいいね。...街道的には、上の写真の方がいいかなぁ。藁葺き中心だと、こちらかな。「街道の向こうに見えてるのは?」 あれ、新幹線。「じゃ~、のぞみと一緒に写っているのもいいんじゃない?」 それ、現地で言ってよ!!


御門から 出して欲しそな 大銀杏

 養専寺の大銀杏。
 街道を歩いていても、家並みに隠れて見えないんだけど、街道からお寺への路地の前に立つと、この御門、この大銀杏! ひろ~い、境内にぽつんとあるよりも、インパクトあるね。


結界に 入ればスピード アップして

 妙光寺山磨崖仏への道。
 近江富士もそうだったけど、ここも山の入り口に猪避けフェンスが張られていて、柵の扉を開け閉めして中に入るようになってるね。「言わば、結界だね。」
 そう! だから、柵の中に入った途端、誰もいないのに、何か見られているような、追われているような、早く目的を済ませて、ここから出たいという気になるね。疲れていても、登るの、早かったよ。



巨大岩 姿変えつつ 神になり

 岩神大龍神。
 妙光寺山磨崖仏へ向かう山道に、突如現れたのが、岩神大龍神。事前に知らなかったので、かなりビックリしましたよ。これ、どう見ても、古墳の石室だよね? 千五百年前に祀られたとか。
 巨大な岩があって、それが磐座として祀られるのは、今までにも見てきたけど、古墳を造って、それが忘れ去られ、崩れていき、石室があらわになって、そこでまたそれを、巨大な磐座として祀ったというような流れなのかな。
 最後に祀ったのが千五百年前なら、最初の古墳に利用されたのは、一体、いつのことなのでしょうかね。


大岩に たたみ一畳 磨崖仏

 妙光寺山磨崖仏。
 掘られた仏さまの高さは、約160センチ。1324年に造られたそうな。鎌倉時代末だね。「磨崖仏、見たの初めて」 磨崖仏って、かなり特殊なのかと思いきや、ネットで調べると、結構各地にあるんだね。この磨崖仏が見ている方向にも、登ってきた谷を挟んだ向かいの山に福林寺跡磨崖仏があるそうな。こちらは、沢山あったようだけど、割り取られて、大阪方面の富豪の庭に持ち去られたとか。なんかね~、とんでもないことするね、ホント。


大岩に 見たのは神かな 仏かな

 妙光寺山磨崖仏。
 山にある大きな岩、これを見たら、そこに神が降臨してくるような、あるいは圧倒的な大きさを誇るその岩自体に神を感じることで、磐座としての信仰が生まれると思うんだけど。あるいは神じゃなくて、仏を感じるのかな? 「東大寺の大仏さまなんか、その大きさでもって、仏を体感させているのと同じなんじゃない?」 でもって、頭の中のイメージを書き込んだのが、磨崖仏ってこと? 「最初に岩を見た人のインスピレーションによって、磐座と磨崖仏に分かれるんだろうかね?」



中山道 挟んで古墳と 新幹線

 桜生史跡公園の横。
 写真右の森は、前方後円墳1基、円墳2基が整備された桜生史跡公園。左の壁は、東海道新幹線。その間の道、まっすぐ白い世界に向かっているのが、中山道。一体全体、どこへ行くのでしょうか? つづく。「ちょっと! 何が続くの?」
 千五百年以上むかしの古墳と、現代の新幹線が、江戸時代の中山道を挟んで存在している。時空を越えてるね。「それ、言い方。目の前で、右から古墳時代の人が出てきて、道を行く江戸時代の旅人がビックリしてたら、時空を越えてるって言えるけどね。」



その時代 熊本宇土から 取り寄せて

 桜生史跡公園の甲山古墳。自然の地形を利用した円墳で、写真はその頂上付近の石室入口。
 入口横の説明板には、石室内の石棺が”熊本県宇土半島の凝灰岩でつくられた家形石棺”だってあるね。「この古墳が造られた時に、そこまで勢力範囲に入っていたってこと? いつ?」 6世紀前半って書いてあるから、飛鳥時代の前の継体天皇の頃かな? 「なるほど、近江の国は、継体天皇のお膝元でもあるから、即位して、反対勢力を押さえた後に、バックアップしてくれた有力者に対して、権威付けに用意したものだろうか? 違うかな? 知らないけど...。」 おい!!



銅鐸の どこが街やね 例えばこれ

 桜生史跡公園のあたりにあった銅鐸の飛び出しお嬢ちゃん。
 「銅鐸のまち? 何? それ?」 ここ野洲市の大岩山からは、今までに銅鐸24点が出土している。「銅鐸って、よくわからないけど、古そうだから、奈良とか出雲とかのものだと思っていたけど。」
 そう思うよね。「大体、銅鐸自身、なんなのか?よく分からないしね。」 うん。あまりにも古すぎて、天智天皇が大津京を造ったとき、地中から銅鐸が出てきたけど、一体それが何なのか、その時点ですでにさっぱり分からなかったとか、聞いたことあるね。



銅鐸の 博物館が あるなんて

 野洲市歴史民俗博物館:銅鐸博物館。写真は入口のモニュメント。
 「へ~、こんなものが m(_ _)m、あるなんて知らなかった。来る人、いるの? m(_ _)m」と、思うかも知れないけど、すごいよ、ここ。解説読んでると、どんどん引き込まれていくね。
 この博物館のすぐ裏で銅鐸が発見されたのが、明治の初め。少年二人が山の中で遊んでいて、大中小入れ子になった3個の銅鐸を発見。翌日、これを聞いた村の人が出て探したら11個も出てきたとのこと。「へ~、たまたま見つけたんだね。」



銅鐸も 羽ばたきアメリカ ドイツへと

 銅鐸博物館。館内入口にある日本最大の銅鐸の複製。
 明治に発見された銅鐸の中には、日本最大の銅鐸もある。写真はその複製品。「じゃ~、ここって、銅鐸に関しては、結構重要な土地なの?」
 大きさと数もそうだけど、銅鐸の種類に関しても重要らしい。銅鐸には近畿式と三遠式と大きく2種類あるらしい。普通は、発掘されてもどちらかひとつの種類だけなんだけど、ここ大岩山からは、両方の形式が出土したそうな。
 「ということは?」 ここが、祭器を祀るうえでの中心地だったと考えられる。「じゃ~、前に寄った、伊勢遺跡がやぽぱり邪馬台国??」
 明治に発見された銅鐸は、2個だけ東京国立博物館にあり、他は散逸してしまったらしい。その行き先は? 「行き先は?」 なんと、アメリカ、ドイツなどの海外もあるそうな。

新幹線 寝てた銅鐸 掘り起こし

 銅鐸博物館。
 大岩山から発掘された銅鐸は、明治のときだけじゃなかった。昭和30年代、東海道新幹線の工事中にも10個の銅鐸が発見された。「合計24個も出土したことになるんだね。」
 銅鐸がなぜ土中に埋められたかは、まったくの謎。新たな勢力の勃興によって、古い祭祀を密かに埋めて隠したとか、土中に埋めて保管していたものが祭祀の移り変わりで忘れ去られたとか、考えられるそうな。
 しかし、新幹線工事の土砂を採取するために山の尾根ごと取り崩されるなんて、隠した人にとっちゃ、想像を絶する展開だよね。「でも、発見されてよかったよね。」



国道脇 登ればススキ 里の池

 大篠原の西池。
 写真はこんな秋の景色だけど、後ろの提を降りたところは、国道8号線の渋滞の列。メリハリの効きすぎ。
 1242年成立と考えられる、京都から鎌倉までの紀行文:東関紀行にも。”しの原といふ所をみれば、西東へ遙に長き堤なり”とある。確かに、渋滞の国道歩いてると、長いもんね。
 「鎌倉時代の紀行文だったら、この道も、中山道じゃなくて、東山道だったのかな?」 そうだね。すごいね。



驕りたる 平家さえをも あわれんで

 平家終焉の地。平家の惣領:平宗盛が、源義経に斬られたところ。宗盛は、壇ノ浦で捕らえられ、鎌倉に護送され、京へ戻る途中、この地で斬られて、京で首がさらされたとのこと。
 写真正面の岡の麓に横長のフェンスがあるけど、それと右側にある工場との間のあたりが、宗盛の胴塚があるところ。そのすぐ前に首を洗った小さい池:首洗い池があったそうな。そこから流れた血が混じった池では、それ以来、蛙が鳴かなくなったとか。蛙なかずの池っていうのは、写真の右の池のことだろうか。
 平宗盛は、清盛の子。でも、偉そうにするし、鈍くさいし、臆病だし....と、武家の統領として、ろくでもないことばかり残っているけど、捕虜で軟禁されている時に近くの子供と戯れたり、妻の死に際してかなり落ち込んだりと、愛情深い人だったとも言われるので、蛙も影響されたのでしょうかね。きっと。



資材置く フェンスの裏の 平家塚

 平家終焉の地。中山道から宗盛胴塚へのエントランス。
 写真右側は、もとリサイクルセンターの資材置き場って感じ。敷地を区切るフェンスの裏の曲がりくねった道を少し行くと胴塚。
 「なんか、行くの、怖そうだね?」 そう、そう言う雰囲気を予想して来てみたら....。「来てみたら?」 そうでもなかったね。上の池の写真もそうだけど、すぐ背後は、トラックがバンバン走る賑やかな国道8号線だしね。塚の石自体も年月経って風化しているけど、お供えや、新しい追善供養の大塔婆も何本もあげてあるし、大事に供養されているって感じだね。地元の方は偉いね。



旅人を 潤し九郎を 元服させ

 源義経元服の池。平家終焉の地のすぐ近く。義経は、あずけられていた鞍馬寺を抜け出し、源氏再興を目指して奥州へ行く途中、見つかりやすい稚児姿を変えるために、この地でみずから元服したとのこと。
 写真の道は、中山道:国道8号線。左下の竹の柵のすぐ奥:電柱の足元が元服の池。「う~ん、当時の雰囲気に浸るには、交流量多すぎだね。」
 もともと、行きかう旅人の喉を潤した池で、山の湧き水がしみだしてきていたきれいな水だったそうな。この池の水を使って、前髪を落としたとか。
 今は、池の水が使われているって雰囲気ないけど、ある意味、義経が使ったおかげで、これからも、この池は残っていくのかな。



七百年 明治の世まで 語りきて

 鏡神社の烏帽子掛松。狛犬さんの右うしろ横のしめ縄が掛けてある大木がそれ。
 源義経が元服後に参拝した折り、烏帽子を枝にかけたという松。なんと、明治6年に台風で倒れるまで健在だったとか。武家の世の中を、最初から最後まで見てきて、武家の世が終わると共に去って行く。「す~ごい、生き証人だったんだね。」



義経が 泊まった宿とか ほんまかな

 鏡宿の源義経宿泊の館跡。
 「これ、ホント? 一体、いつの話??」 1174年の3月3日!! 「何?その正確さ!」
 でも、この写真見て! 案内板と車道の距離! 結構大型のトラックも通るから、当時の様子をなかなかイメージできないよね。「そんなことないんじゃない? トラックが弁慶だと思えば!」 な、なるほど。



義経と 同列案内 駐在所

 鏡宿の本陣跡、駐在所跡。
 鏡の宿の案内板。充実しているね。建物は残っていないけど、何があったかちゃんと伝え続けているね。
 しかし、写真の本陣の案内板の奥、天下の源九郎義経と同じレベルで、駐在所跡を案内しているのは、すごいね。地元でも愛されていた駐在所だったんだろうね。



来た道の 同じ宿場と 思ほえず

 鏡宿の富田屋跡。
 鏡の宿。国道8号線を歩いて、鏡口の交差点から国道と別れて旧街道へ。「う~ん、とても先ほどまでと同じ宿場とは思えませんね。ホント。」



鏡宿 抜ければ広がる 野も空も

 鏡宿の東。
 「鏡の宿の印象は?」 う~ん、賑やかな感じかな。「何が?」 車!....、というわけで、鏡の宿を抜けると、宿場のまわりは、こんなだったんだなって、あらためて思ったね。メリハリあって、印象に残るし、いいね。



水や人 昔も今も 近道へ

 西横関の交差点。
 写真では写ってないけど、右の建物の陰に、道しるべがあって、これより伊勢道・水口道とある。
 「東海道と中山道の間道って、結構あるんだね。」 この交差点も写真右の方向からは、車が沢山やってきていて、随分信号待ちで泊まっていたよ。今は、名神高速の竜王インターへのアクセス道路になっているようだね。
 この狭い歩道の国道をやってきて、これから進む道は、中央白い建物の左側の旧街道。



サッサカサ 国道それて てくてくと

 日野川手前の西横関。
 このあたりは、ところどころ旧街道、ところどころ国道8号線。国道は交通量も多いし、歩道も狭いし、大変。旧街道に入ると、ほっとするね、ホント。少し入るだけで、なんか静かな感じするね。



七日間 毎日川に 飛び込んで 

 日野川手前の西横関の若宮神社。
 「何? 川に飛び込むって??」 この若宮神社の由来が書かれているのをみると、本祭に関する記述のところに”当屋の主人は七日間毎日大森川の水中に飛び込み祭礼の滞りたく終わるように行をする”ってあるんだけど。「それ、役をされている人のこと? すごいね。」 今でも、されてるんだろうかね?



水少な 川幅今も 舟二隻

 日野川を渡った東横関。街道の渡しのあったところの少し上流から。
 安藤広重の武佐宿の浮世絵には、この川を渡る様子が描かれている。小舟二隻を縦につなげて、上に板を敷いたところを旅人が渡っているね。
 通常は、舟を用いた渡しで、水量の少ないときは、浮世絵のようにしていたそうな。「ちょうど今が、その雰囲気だね。」



はるかなる 電柱並木 どこまでも

 東横関。
 いや~、広いですね。気持ちいいですね。でもって....。「でもって?」 遠くに小さく見えてる山、山だろうけど、小さく見えて、随分遠いね。「疲れてきても、並木の樹の根元で腰降ろして休憩する風でもないしね。」



集落に 入れば出迎え 飛び出し坊や

 馬淵。
 ここでは、正確に言うと、飛び出しお嬢ちゃんかな。誰にも会わないなかで、せめてもの救いというのだろうかね。でも、このまま進むと国道8号線と合流。馬淵の半分は旧街道で、半分は国道という感じ。国道沿いにも古い建物あるけど、見て歩けないね。



遊ぶ子の 声が供養か 洗い池

 住蓮房首洗い池。
 住蓮さんと言えば....。「住蓮さんと言えば、守山の宿場の手前の焔魔堂に、おかあさんのお墓があったよね。」 そう、地元の方が供養し続けていたね。
 住蓮さんは、承元の法難の発端になったお坊様。この事件では、法然上人門弟の4人が死罪、法然上人、親鸞上人含め7人が流罪とされた。法然上人の念仏宗の隆盛に危機感を持った延暦寺、興福寺などから、突き上げがあり困っていた朝廷が念仏宗弾圧の口実にしたもの。
 住蓮さんの念仏集会で感銘を受けた後鳥羽上皇の女官が勝手に出家してしまう。怒った上皇が住蓮さんを捕まえて...、という流れ。
 しかし、武士でもない住蓮さんの首洗い池とは、すさまじいよね。「後鳥羽上皇、むちゃくちゃするね。」 写真の左置くの竹の柵で囲ってあるところだけど。「まわりは、児童公園になっているんだね。」 子供の遊ぶ声で、池も清まっていると思うよ、きっと。



供養さる 美声の主を 風誘い

 住蓮房供養塔。
 写真のこんもりしている塚の上に供養塔がある。処刑されてうち捨てられるんじゃなくて、供養されているのは、みんなこの事件、むちゃくちゃだと思っていたんだろうね。
 事件の発端の女官の出家だけど、住蓮さんは、大変な美声の持ち主だったそうで、それが仇となってしまった感があるね。念仏集会に行って、即出家するくらいだから、感動的だったんだろうね。”念仏の講師は、声よき。”って言うものね。「それ、枕草子の”説教の講師は、顔よき。”でしょ。」 m(_ _)m


塚ができ 塔ができて 名が変わり

 住蓮房古墳。供養塔を含む塚全体の総称かな。
 「えっ、これ、古墳だったの?」この辺は、千僧供古墳群というくらい、古墳が点在しているようだね。「古墳を造って供養して、その上に供養塔を造って供養して、合体して住蓮房古墳になったのね。」
 「ひょっとして、地名も、住蓮房さんに何か関係あるのかな?」 これは、平清盛が亡くなった際、千僧供養料として、この地を寄進したことによるらしいね。「いろいろあるんだね。」



自動車の 道折れやっと 武佐の宿

 武佐宿の西の入口手前の交差点。
 ここを渡って、右に折れ、すぐに左に折れる道が旧中山道。今日は、国道8号線を、よく歩くね。だいたい、片側に狭い歩道があるパターンで、右折レーンのある交差点前までくると、歩道がなくなったり....。山道歩くよりも、きついんじゃないかな。ホント。



神社でも お寺でもなく 屋敷の樹

 伊庭貞剛さんの屋敷跡にある楠。
 「す~ごく、でかいね。」 これね、武佐の宿場に入ったあたりから見えだして、近づくにつれ、高くなるわ、高くなるわ。いや~、武佐宿のシンボルですね。
 伊庭さんは、明治期に住友家の総理事をしていた人。でも、いわゆる利益のみを追求する商売人かというと、そうじゃない。当時大問題に発展していた別子銅山における煙害問題に取り組む。働いている人、そこに住んでいる人と交わり、話を聞き、同感する。そして、離島に精錬所を移転したり、荒れた山へに年間100万本以上の植林を行ったりした。今のように、法律も何もない時代に。「これまたすごいね。社会正義を貫く人だね。」 結局、これが回り回って、会社のブランドを高めることにもなるんだろうね。
 住友家当主の急死による家督相続も、徳大寺家から婿養子をもらう形でまとめたとか。「あっ、それなの。ここで、住友家に、天皇家の男系男子の流れが入ったのね。これ、伊庭さんがまとめたのか。すごい人だね。」


緊急事態解除。ワクチンも接種。さっ、出かけよう!
2021.10.6. 午前:
 三上山登山。半年ぶりのてくてく。膝痛っ。
2021.10.6. 午後:
 守山から野洲の妙光寺山磨崖仏まで、てくてく。
 山降りた後、歩くのは無理ですね。膝が...。
2021.10.23. 午前:
 桜生史跡公園から武佐まで、てくてく。
 今日の滋賀県は、強風。ちょっと寒いかな。

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