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守山 > 志那(志那街道)

色々と 妄想膨らむ 鬼滅かな
金森水湧公園の鬼滅の水車。「これ、なに??」
鬼滅の刃の舞台になったところ....。「...じゃなさそうだし。のどかだよ、ここ。」
水車の発想を得たところ....。「....そんな、雰囲気しないけど。」
作者の出身地....。「...九州じゃなかった?」
作者のお母さんの実家がこのへん....。「....適当な妄想ばかりして。」 m(_ _)m
すっかり、水車に付いてるネーム板に目がいきましたが、ここ、金森:かねがもりは、ゆたかな地下水に恵まれ、ここの湧き水は、かつて近在12郷を潤していたとか。

杖突けば 生きる力が 吹き出して
金森の蓮如上人杖掘池。住民が飲料水に困っていることを聞かれた上人が、草むらを杖で突かれたら、突然水が湧き出したそうな。
「それ、本当?」 まあ、えら~い方にはよくある伝説的な事柄だけど、実際には苦しい生活の中で、上人の教えに会えて、希望が、やる気が、生きる力が湧いてきたという感じじゃないかな。

つわものと 戦いし里 ひばり鳴き
蓮如上人が本願寺を破壊されて最初に逃げ延びたところ、金森。写真は金森の集落を抜けたところの風景。見えてませんが、琵琶湖を挟んで、比良山系を望む。「いや~、金森御坊というのは聞いたころありましたが、ここ、守山だったんですね。」
む~~っちゃ、のどか。でも、ここに後白河法皇をして嘆かせた言うこときかない比叡山延暦寺の僧兵が攻め寄せて戦い、後の時代では天下統一まっしぐらの織田信長相手に戦い、って、すごいよね。ホント、こんなに、のどかなのに。
戦いが またつわものを 育んで
金森と言えば? 「金森と言えば....」 戦国時代の武将で? 「....ん~、あっ、飛騨の金森さん!」 そう、金森長親。
金森長親は、美濃国生まれだけど、一家で金森に引っ越してきて、18歳までここで育ったとのこと。「飛騨の人じゃなかったんだ。そうか戦国武将だから、金森御坊の団結力の中で育ったのが、影響したのかな?」
そののち、織田信長の桶狭間の合戦に参戦してのち、金森と名乗り、信長について行ったそうだよ。「へ~、すごいね。」 そうだろ、ぼくだったら、もう一度金森に戻ってきて、自慢しまくるんだけど。 「いや、そこじゃなくて。」

のどかなる 里飛び出して つわものに
向こうに見えるのは、長束の集落。長束といえば、...。「なつかと言えば....、長束正家。」
そう、ここは、豊臣秀吉の五奉行のひとり、長束正家が生まれ育ったところ。「あ~、あの、忍城攻めで、ふんぞり返って、えらそうにしていた、男前の平岳大さんのこと?」 それ、褒めてるの? けなしてるの? 「一応、ファンだけど。」 のぼうの城の映画の話でしょ。
長束正家は、算術に長けた秀才。秀吉の九州平定、小田原征伐、文禄・慶長の役では、兵糧奉行を務め、20万にも及ぶ兵を、長期間に渡り、滞りなく活躍させている。「すごいね。」 それまでの戦国の戦だと、長期間に渡って大軍の陣をはることは無理だったような。
正家がすごいのは、正妻に、徳川家康の四天王のひとり、本多忠勝の妹を迎えていること。「でも、関ヶ原では、西軍について、最終的に殺されて...。」 う~ん、なんでだろうね。関ヶ原は、豊臣家臣団同士の対決みたいなものだから、家康が口出す前に殺されたのかもね。

大鳥居 誘われるまま 道違え
印岐志呂(いきしろ)神社の大鳥居。な~んにもない旧街道の横にこの鳥居。すごいね。
「で、道違えって?」 いや~、写真下に少し写っている、右へ折れる道を行くつもりだったんだけど、大鳥居に見せられて、写真撮った後、神社にお参りして、そのまま先に行っちゃった。
「どこへ行くつもりだったの?」 芦浦観音寺。このお寺は、織田信長から琵琶湖の水運権をまかされ、豊臣秀吉、さらに江戸時代の初期まで111年間もその任にあった。一時は一城主格で4万石相当の領地も認められ、江戸には屋敷があり、千代田区には観音坂の名前がのこっているとのこと。「すご~」

薄っぺら 杜に入らば 深々と
印岐志呂神社の参道。これ、先の写真、見渡す限りの田の中の鳥居の横の道を進んで、うす~く見える森の横から入った写真。
「なんで、こんなに深いの??」 さ~。神社にはよくありますが、外から見るのと、中は雰囲気が違ってることがありますよね。「普通、森の長手方向に鳥居と参道つくるような気もするけどね。京都の下鴨神社の糺の森とかね。」 なんか、でも、違う世界に入ったような、わくわく感があるね。

人力車 汽船も乗り継ぎ また行きた
穴村のあなむら診療所。「村の診療所....にしては、ごっついね。」
そう、昭和初期には、滋賀県内はもとより、京阪神・名古屋方面からもたくさんの患者さんが来たとか。夜泣きに効くとのことで、モグサから採った液をツボに塗る熱くないお灸で、子供連れの親がたくさん集まったそうな。患者さんの数、一日千人というのも。
診療所の前には、これらの人を目当てにしたおもちゃ屋や、団子屋など数店があり、賑わったとか。志那街道終点の志那港も、この時期は主にここへ来る人が、汽船から人力車・馬車・タクシーへ乗り継ぐポイントとしてたいそうにぎわったそうな。「子供にしてみたら、嫌いな病院だけど、痛くないし、いろんな乗り物にも乗れるし、お団子も買ってもらえるし、まるで夢の国だね。」
門の奥に見えるのは、その頃も見てきた樹齢400年を越える松だそうな。

村ごとに 宮ごと期待の 藤の棚
穴村の安羅神社。
このあたりの神社は、なんでも、たいてい藤棚があるそうな。「すてきなところだね。しかも、季節も、バッチリだね。」 うん、でも、家のあたりでは、もう見頃を過ぎているっていうので、1週間遅かったかなと思ったんだけど、今日お参りした神社は、どこも、まだのようだったね。
「唯一、ここだけ?」 そう、ここだけ。神様、ありがとうございます。同じ地域でも、違うんだね。

海越えて 行ったり来たり 新世界
穴村の安羅神社。祭神は新羅の王子:天日槍。天日槍は新羅からやって来て、播磨の国から、ここ近江の国、そして若狭をまわって、但馬で落ち着いたらしい。今の出石だね。同じく天日槍を祀る但馬国一の宮の出石神社がある。
そして、新羅の国だけど、第4代の国王:脱解尼師今の誕生説話では、倭国の多婆那国で、王妃が卵を産んだが、不吉だと言われて箱に入れて海に流したが、それが辰韓に流れ着いて、老婆が箱を開けると男の子が出てきた。成長すると賢者となり、新羅の2代国王の娘を娶り、軍事・国政をまかされた。そして後、3代国王の死後に、王位に就いたとのこと。
”多婆那国”って、なんとなく但馬国かなって感じするね。そうすると、新羅4代国王と天日槍って、但馬→新羅→播磨→近江→若狭→但馬って、一周廻って帰ってきたって感じだね。

淡海の海 願い忙し 風の神
志那中にある惣社神社。志那三郷の惣氏神。
天智天皇のころ、風神を祀ったのが始まりとのこと。「風の神、って、なんか、珍しいような....?」 ひょっとして、ここは、風の谷?? 「谷じゃないし、広々とした平野だし。でも、何をお願いするの???」
志那街道の終点の志那の港から、堅田・坂本・大津へ、琵琶湖を船で渡ったから、風が重要だったんじゃない? 「なるほど、スピード面でも、安全面でも、船で渡るには、風は重要だよね。」 このルートを通る人は、みんな、ここで拝んでいったのかな。

仕事する ばあさま早き 旧街道
志那中の旧街道。水路沿いの道、いいですね。
午前中歩いた中山道は、結構、車もよく通っていたけど、志那街道に入ってからは、ず~っと、のんびりですね。
「人にもあまり会わないしね。」 なんか、でも、すごく挨拶されるところもありましたよね。「う~ん、よく挨拶をする地域には、不審者が侵入しにくいとか、まず、不審者を見たら、挨拶して、挙動を観察しよう、とか。」 ...不審者ですか。「ちゃんと、ニコニコして、愛想良く歩かなきゃダメだよ」 ハイ、ハイ。

早すぎた 期待外れの 笑顔かな
砂ずりの藤で有名!ということで、三大神社に寄りました。
「あ~」とか、「ちょっと早いかな」、「まだやね」などと、独り言を言いながら、まさに、出番を順番に並んでいるかのように、ひとりずつ、やって来ては、笑顔でユーターンしていく人で、賑わってましたね(笑)。「さぞかし、すばらしいんだろうね。」

飛び出して 大丈夫だよ 突き当たり
志那街道をまっすぐ進んで来た突き当たり、志那の浜は志那神社御旅所の石碑。志那街道は、守山から琵琶湖に出て、船で向かいの堅田や大津などへダイレクトに進める道。
「今は、交通手段も経路も変わって、ホント、静かだね。」 飛び出し坊やだけが張り切ってるね。お疲れさま、って感じだろうか。

一面の 蓮の上には 比叡山
志那街道の突き当たり、千蓮美那(せんれんびな)の池。
ここ自体は、人工的に作られたもので、時期になると睡蓮で一杯になるそうな。「見に来たいね。」 でも、元々は、向こうに見えている提もなく、琵琶湖に面していたようだね。傍らに建つ蓮海寺の名のごとく、一面の蓮の海の向こうには、延暦寺のある比叡山が雄大な姿を見せていたんだろうね。「まさに、比叡山が、仏教の聖地に見えただろうね。」
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